判断的知識に対する意志の優位

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」「一」第3段落293頁3行目「カントは数学や純粋物理学が」から「二」の第2段落295頁1行目「真の自覚に到達するのである」まで講読しました。今回のプロトコルはHさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「体験は認識以前と考へられるが理論理性の自省其者が既に体験の一種ではなからうか」(293,6-7)と「知るといふことは一様ではない、私は知るといふことに、少くとも根本的に相反する二つの方向を区別せねばならぬと思ふ。一つは対象認識の方向であり、一つは自覚の方向である」(293,13-14)、「真の自覚の意識は述語的一般が無となること、即ち真の無の場所に求めなければならぬ。(中略)述語的一般が対立的無として限定せられ得るかぎり、尚所謂知識的自覚に属するが、更に之を越えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘すると考へられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである」(294,13-295,1)の三カ所でした。そうして「考えたことないし問い」は「認識以前の体験というようなものは、どのようなものがあるか。(例えば、科学者(生物学者・物理学者等)の「水」に関する認識とは違った体験を、私たちは日常の中で「水」を見るときにしているのではないか)」(97字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
西田は「自覚」を「体験の一種」と捉えていますが、Hさんはそれとは異なった「体験」をお考えのようですね。「日常」の中に「体験」があると。また「認識」を科学者の認識に限定しているように思われますが。

H

認識は関心によって分れると思います。対象を対象自体として認識するのが「対象認識」で、これは主に科学者ないし学者の関心です。これに対して自分の生活に結び付いた関心に基づく認識は日常的な体験に属すると思います。同じ水も、科学者にとってはH₂Oで、日常の体験の中では例えば料理で使う材料です。
佐野
私の目の前にあるのは時計ですが、「これは時計だ」とか、「私は今歩いている」といった判断はどうなりますか?それは必ずしも科学的ではないですが、これは「認識」ですか?

H

「認識」ですが、そうした認識は稀で、私たちは大抵一定の世界を前提として、それに没入していると思います。
佐野
そうだとすると、ほとんどボケ状態になりませんか?我々はむしろ、状況どのようであるか、自分が何をしているのかを頻繁に反省し、認識しているのではないでしょうか?

H

そうした認識も学問的な関心ではなく、自分が生きることが関心ですから、体験に属すると思います。

W

自分が生きることが関心の的になっているような認識でも、そこに認識している自分が意識されているかどうかの区別はあると思います。そうして認識以前の体験について語る場合、私たちは認識からしか語れないと思います。
佐野
日常に没入しているということも、そうした認識から語っているのだ、と。確かに没入しているところに認識はありませんね。面白くなってきました。少なくともここには、二つの基準がありそうですね。対象を対象として考察するか、対象を自分の生活に結び付けるかという、「関心」によるものと、認識している自分、が出て来ているかいないのかといった二つの基準が。(西田はこの、認識している自分を見ること(「理論理性の自省」)を「自覚」と呼び、「体験の一種」と呼んでいることになります。例の英国の地図で言えば、描いた地図の方を見るのが「対象認識」で、描く手前の所を見るのが「自覚」ないし「体験の一種」です。Hさんは対象を対象として見る学問的な認識が「対象認識」、それ以外の日常的な認識を一般に「体験」と呼び、Wさんは認識する自分が出て来る認識を「対象認識」、出て来ないものを一般に「体験」と呼んで、しかも我々は「対象認識」から出発するしかないとお考えのようです。西田は「知る」ないし「認識」を知るもの(自己)と知られるもの(対象)の関係から最も広く捉え、対象(主語)の方向の極限に「同一」を考え、自己(述語)の方向の極限に「自己同一」を考え、後者を「真の無の場所」における「真の自覚」と考えています。そうして両者の中間に「種々の知(知識・認識)」を考えようとします。この「中間」には「対象的認識」の要素と「自覚」の要素が必ず含まれることになります。前回は「同一」を没頭状態と解釈しました。この「同一」と中間段階における「自覚」(判断的自覚と意志的自覚)と「真の同一」(直覚的自覚)が西田にとっての「体験」ということになります。私たちはなぜか最初の没頭状態から引き抜かれ、対象を意識(認識)し、自己を意識します。)

W

日常生活こそ大事なのに、何故人間は認識してしまうのかなあ、と不思議に思います。
佐野
なるほど。(後で考えたのですが、この認識こそ、Hさんの言う学問、さらには哲学(学問)、芸術、宗教に人間が目覚める機縁であり、そこに人間存在の深い意味があるように思われます。)プロトコルはこれくらいにして、講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(295頁1行目~7行目)
佐野
「Cogito ergo sumのsumを存在と考えるならば」とありますが、誰を念頭に置いていますか?

A

デカルトです。
佐野
そうですね。「私は考える、それ故に私は在る」ということで、「sum」が「私は在る」です。それを「存在」と考えるとは、「私」を実体(独立に存在するもの)として考えるということで、一面においてデカルトはそれをやった、ということです。それを西田は「自己を対象的に形而上学的存在と見ること」だ、と表現しています。そうしてそれは「真の自己」ではないと。ついでカントの「意識一般」が出て来ますね。

A

はい。
佐野
カントの「意識一般」も「私は考える(ich denke)」ということです。だがカントはそれを形而上学的な実体とはしなかったということです。「自覚的意識の自己反省の方向に於て見られるもの」と西田は表現しています。例の英国の地図を描く手前のところ、図に対する地を見る、ということですね。もちろんこれは対象認識ではなく、西田に言わせれば直観です。しかしそれを西田は「尚ほ徹底せる自覚ではない」と批判します。それが「単に客観的対象界の総合統一の意識」にすぎないからでしょう。この点は後で考えるとして、次に「此の立場を越ゆれば、知識はないと云われるかも知らぬが」とありますが、そのように「云う」のは誰ですか?

A

左右田でしょう。あるいはリッケルト系の新カント派。
佐野
そうですね。西田が想定する左右田はそのように「云う」だろう、ということだと思います。西田はそれに対し「それではカントの批評哲学は何であるか」、「カントの批評哲学も亦意識一般の立場に於て構成せられたものとは云われまい」、つまり「対象的認識」ではないだろう、と批判します。微妙なところですが、カントとしてはもちろん批判哲学は「対象的認識」ではないが、西田の言おうとしている「自覚」でもない、ただ認識の可能性の制約(条件)を明らかにしただけだ、ということになるでしょう。自己が自己を見る(眼が眼を見る)ような「自覚」は人間理性には不可能だ、というのがカントの基本的な立場です。次をBさん、お願いします。

B

読む(295頁8~10行目)
佐野
「対象的認識」を図とすると、「意識一般」が地ということになって、図から地へ、が「自覚的方向」です。それはさらに深まる、と西田は言います。そうしてここに「判断的自覚(意識一般)」、「意志的自覚」、「直覚的自覚(真の無の場所)」の三つの自覚が登場します。最初の立場は先程の議論では「対象的認識」の立場ですが、これは『倫理学草案第二』で「見者の立場」といわれたもので、『善の研究』では純粋経験を想起・反省する第2編の立場と考えられます。これに対し「意志的自覚」の立場は目的が意識されている(つまり没頭しているのでない)限りにおける行為の立場で、これは『倫理学草案第二』では「作者(なす者)の立場」といわれたもので、『善の研究』では第3編の立場に相当します。「直覚的自覚」は第4編と第1編です。まあ、これは私見にすぎませんが。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(295頁10行目~296頁2行目)
佐野
「対象認識の方向に於て意志を認識することはできない」とありますが、これは次に「意志の意識」とありますから、意志は外に見るものではなく、自覚の事柄だということでしょう。そうして「意志の意識を全然否定するならばとにかく、苟も之を認めるならば」とありますが、「之」とは?

C

「意志の意識」です。
佐野
そうですね。そうして次に「之を対象認識の方向に於てするのではなく、自覚の奥に於てするのでなければならぬ」とありますが、最初の「之」は?

C

「意志を認識すること」ですか?
佐野
そうでしょうね。これを読むと、西田は「意志の意識」というものを事実として前提して、「意志の認識」は「自覚の奥」でなされる、と主張していることになりますね。「意識」と「認識」が区別されていますが、「意志の意識」は何かを意志している場合、その何かに当たるものを図とするなら、意志しているということは地に当たる、隠れたもの、ということになると思います。これに対し「意志の認識」は、地の直観です。例の英国の地図を描く手前の直観です。ちょうど「判断内容」(図)と「判断的自覚(意識一般)」(地)の関係とパラレルです。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「我々の自覚の奥に意志的自覚の立場を見ることによって」とありますが、この「見る」は「意志の認識」と同義で、直観です。それによって我々は「対象界に心理的意志を認識することができる」とされます。我々が対象界において相手のうちに意志を〔対象的に〕認識することができるのはこの直観をしているからだ、ということになります(もちろん、カントはこのような知的な直観は認めません。あくまで「かのように」と言い得るのみです)。我々が「対象的認識」の内に「合目的的世界の認識」や「心理(学)的現象界」、さらには「歴史の世界」を図として「客観的に認識」、つまり「対象的」に認識できる(カントはこうした「認識」を認めませんが)のもこの「意志の認識(=直観)」があるからだ、と西田は言います。「自然界認識の立場〔対象的認識の立場=意識一般〕よりも一層深い立場〔意志の認識の立場〕を自覚の底に見出すことによって可能になる」とはそういうことです。ただなぜ「一層深い」と言い得るのか、あるいはどのようにして立場の移行が起こるのかは明らかではありません。次に「後者の立場をも意識一般というならば」とありますが、「後者の立場」とは?

C

「自然界認識の立場よりも一層深い立場」ではないでしょうか?
佐野
そうですね。「意志の認識」の立場です。それでは「いうならば」とは、誰が「いう」のですか?

C

左右田博士では?
佐野
だと思います。西田の想定する左右田博士の主張ですね。左右田博士はすべての認識は「対象的認識」であり、「意識一般」の立場において成立すると考えているでしょうから、「心理的意志」の認識も「対象的」な認識であり、あくまで「かのように」と接続法(仮定法)で語るべきものということになります。しかし西田はすべてが「意識一般」の立場だとしても、すべてが対象認識であるとすることはできない、だとすると「意識一般にも種々の意味がなければならぬ」と主張します。そうして「意識一般は、意志的自覚の方向に自己を深めることによって種々の対象界を見ることができる」とします。これは「意識一般」に(判断的な意識一般、意志的な意識一般、直覚的な意識一般というような)レベルの差を認めるもので、西田流の〈すべてが意識一般の立場〉です。もちろん左右田はこんな立場は認めないでしょう。どんな体験であれ、「意識一般」において「対象的認識」にもたらされなければ認識にならない、と考えると思います。適切な言葉で語らなければ認識にはならない、という立場です。これに対し西田は言語以前の体験の認識(直観)を認めます。次の段落に進みましょう。Dさん、お願いします。

D

読む(296頁3~8行目)
佐野
「我々が意志することを知るというから、否直観するということをすら知ると考えねばならぬから、理論理性が最高であると云うならば」とありますが、この「云う」は?

D

左右田博士が「云う」のだと思います。
佐野
そうですね。これも西田の想定する左右田の主張と考えられます。左右田が言うように、すべてが認識(知)である、という立場を認めても、ということです。「知識という語の意義の問題とならねばならぬ。そういう場合の知るということは、意識一般によって対象を認識するということとは違うのである」と西田は続けます。「意識一般」に三つのレベルがあったのに対応して、それにおいて「知る」ということにも「判断する」「意志する」「直観する」の三つのレベルがある、そのように主張します。もちろん左右田はこんなものは認めないでしょうね。彼にとっては、「意志することを知る」ことも、「直観することを知る」ことも含め、すべてが「対象的」な(言葉にもたらされた)認識です。逆に言えば、言葉にもたらされなければ認識にならない。どうやらここには〈言葉によって認識する〉のか〈言語以前の認識から言葉は生まれる〉のか、という立場の違いがありそうですね。

D

私はこの殴り合いのような両者のけんかは、その精緻さにおいて西田に軍配が上がると思うのですが。

E

私には西田の言いっぱなしのように思われます。
佐野
次を見て見ましょう。「(意志することを知る、直観することを知るというような)そういう意味の知るという立場は、知識が知識自身を自省する立場であって、かかる意味に於ける知るという中には、意志することも、直観することも含まれて来る」とあります。判断的な知も、意志的な知も、直観的な知も、その「知る」の根本は自覚(「知識が知識自身を自省する」こと)だということです。地の直観です。これを左右田は、眼が眼を見ることだとしておそらく認めない。左右田にとって「知る」とは図の認識、あくまで「対象的な認識」です。ここまでよろしいでしょうか?

D

大丈夫です。
佐野
続いて「それは判断意識というものではなく」とありますが、「それ」とは?

D

「かかる意味に於ける知る」です。
佐野
そうですね。「意志することを知る、直観することを知る」という意味における「知る」ですね。これをおそらく左右田は「判断意識」と取る。西田はそうじゃない、「我々の自覚的意識の立場に於て深く反省せられたもの」「意識を対象とする意識」だ、そう言います。この「意識を対象とする意識」とは、〈対象化された意識(意識された意識)〉を意識することではなく、〈意識する意識〉を意識することです。もちろんこんなものを左右田は認めないでしょう。次をEさん、お願いします。

E

読む(296頁9~13行目)
佐野
「意志」を意識の「外から働く」、あるいは「内から働く」というように「作用」として見れば、「対象的」な認識となりますね。その場合は意識の内外に所謂〈物心の独立的存在〉を仮定することになります。そうではなく、意志は〔判断・直観と並んだ〕「自覚の一様相」だ、そのように西田は言います。そうして「かかる自覚の立場よりして、判断的知識に対して意志の優位が考えられるのである、更にその上に直覚というものも認めねばならぬのである」と述べますが、西田の議論は〈判断の意識〉および「意志の意識」という事実を出発点として、それぞれの根本に直観的な自覚を認めているだけなので、厳密に言えば、「判断的知識」に対する「意志の優位」は明らかではありません。これについては以下の論述を慎重に見て行く必要があると思います。今日はここまでとしましょう。
(第78回)
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「知る」ということの二つの方向

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「左右田博士に答う」の前文と「一」第1段落290頁1行目「哲学研究第二十七号に掲載せられた左右田博士の論文を読み」から293頁2行目「併し自覚の自覚といふ如きは空虚なる言辞に過ぎない」まで講読しました。今回のプロトコルはHさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々の眞の自覺とは如何なるものであるか。自覺は自覺自身の内に深く反省して見なければならぬ」(292,11-12)と「自覺には深淺と種々の段階とを考へることはできるであらう。併し自覺の自覺といふ如きは空虚なる言辭に過ぎない」(292,15-293,2)の二文でした。そうして「考えたことないし問い」は「眞の自覺は、自覺自身の内に深く反省することで到達するものとしているが、自覺には深浅と種々の段階はなく、反省を繰り返すうちに、直ちに眞の自覺に到達するものであり、かつ、それは「絶対無の場所」を自覺することだと、理解をしていいのか」(113字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
「自覺には深淺と種々の段階とを考へることはできるであらう」を誰の主張とお考えですか?

H

左右田博士です。
佐野
西田の主張とも取れますね。他の方はいかがですか?

K

私も西田の主張と取りました。
佐野
そうですね。ここで言われる「自覚の深浅と種々の段階」が295頁8~10行目に具体的に述べられています。「判断的自覚」と「意志的自覚」と「直覚的自覚」の三段階がそれです。

H

よく分かりました。
佐野
「真の自覚」が「絶対無の場所」において成立するというのはその通りだと思います。それでは本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(293頁3行目~7行目)

A

「理論理性によって認識するということ」と「理論理性其者の自省」の関係がよく分かりません。
佐野
我々は理論理性を用いて認識しているわけですが、そのこと自体(あるいはそうした認識に没入している在り方)と、そのように認識している、と反省していることとは異なります。この後の方の在り方が「理論理性其者の自省」という在り方です。数学や物理学に専念していることと、それが「如何にして可能か」を論じる立場は異なります。何でそんな問いが生じるかというと、人間は数学や物理学というようないわゆる自然科学を超えて、形而上学にまで突き進むわけですが、我々が理論理性を用いているのである以上、もしかすると正しく用いていない可能性があるからです。そこで認識批判(批評)が必要になるのです。その結果カントにおいては数学や物理学は無罪判決、理論理性による形而上学は有罪判決を受けることになります。経験的に知り得ないものを知ろうとしている、ということです。こうして「理論理性其者の自省」の立場が「対象的知識を批評する批評哲学其者」の立場と重なることになります。西田はカントがこうした「理論理性自身の自省」ないし「批評哲学」の立場を明らかにしていない、と批判するのです。

A

分かりました。ですが、その場合「体験」はどうなるのでしょうか。「理論理性の自省其者が既に体験の一種」とあり、それは「認識以前」だということですから、西田は認識以前の体験から認識が出て来ると。
佐野
そういうことになりますね。また西田は「認識以前」の「体験」によって、「理論理性の自省」の立場の「一般妥当性」を要求できる、つまりその立場を明らかにできるとしています。さて、これはどうでしょうね。左右田博士からすれば、「認識以前」と言っても「体験」と言っても、すでに認識だ、理論理性の枠組みで成り立っている、と主張するでしょうね。そうして知ることのできない「認識以前」の事柄について直接法でああだこうだ断言することは理性の越権だと言うでしょうね。

B

体験と認識の関係ですが、リンゴが落ちることは誰でも体験しているけれども、そこにニュートンが万有引力を認識した、というような関係を言っているのですか?
佐野
「リンゴが落ちる」というのもすでに認識です。我々は一面において認識を一歩も出ることはできません。体験と言っても、認識以前と言ってもすでに認識です。無意識と言っても、無意識を無意識として意識したら無意識でないのと同様です。しかし他方で、我々はたしかに「認識以前」を生きています。眠っている時もそうだし、赤ちゃんの時もそうだ。あるいは何かに集中している状態やぼーっとしている時だってそうです。そこに何かをしている、とかぼーっとしているとかいうような「認識」はない。我々は日常生活の中では「認識」以前を「生きている(存在している)」(そういってしまえばすでに「認識」ですが)はずです。西田はそうした「認識」以前を問題にします。左右田博士からすれば、それは「知り得ない」ということになります。認識を一歩も出ることができないのと同時にすでにそこを生きている、というのは人間が抱える矛盾で、おそらく両者の思想の対決には決着はつかないだろうと思います。次に参りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(293頁7行目~11行目)
佐野
「自覚ということは単に心理学的事実ではない、単に心理的事実としては自覚の意識は出て来ない」のところはどうですか?

C

心理学の中で、自覚を論じても、そこに「自覚の意識」はない、ということだと思います。
佐野
そうですね。自覚ということを心理学の対象にしている、たとえ、内観法による心理学でも、内観によって対象化している、ということでしょう。そうなると、それは「自覚の意識」ではなく、〈対象の意識〉だということになる。

C

次に「私は自己を形而上学的存在と考えることすら、自覚の意識と矛盾すると思う」とありますが、これはどういう意味ですか?
佐野
たとえばデカルトが「Cogito, ergo sum(私は考える、それ故に私は在る)」という「自覚の意識」に基づいて、「自己」の存在を証明し、かつこれを「実体」としたなどを念頭に置いているのだと思います。このように「実体」化してしまうと、〈対象の意識〉になってしまう、そういうことだと思います。カントは自己をこのように実体化して形而上学的自己とすることを誤謬推理だとして批判しています。

D

どういうことでしょうか?
佐野
「私は考える」という場合の「私=考える」は認識・判断(「AはBである」)の「地」と言うべきもので、どこまでも対象化できないものです。これを形而上学的に対象化・実体化したということです。ところで、ここには心理学的でもない、形而上学的でもない、「自覚の意識」ないし「体験」に基づく哲学が西田の立場として主張されているよう読めますね。

D

はい。
佐野
ヘーゲル哲学後、その反動として反形而上学への傾向が生じますが、それは実証主義、心理主義、歴史主義という形を取りました。心理主義は哲学を心理学に還元するような思想傾向です。ヴントなどがそうですが、明治時代にはこうした哲学が流入してきており、西田もヴントやジェームズなどから多くを学び、自身も旧制高校(四校)で心理学の教鞭をとっていました。こうした心理主義はフッサールや新カント学派によって厳しく批判されることになります。西田はこうした心理主義ではない、しかも従来の形而上学でもない、心理の上に立てられた新たな形而上学(経験の彼方にではなく、此方に脱する形而上学)を構想し、これを「純粋経験の哲学」として展開し、かつこの立場を正当化しようと試みた。そうして出来上がった書が『善の研究』だと考えられるのです。これは私の解釈にすぎませんが・・・。要するに『善の研究』で試みられた西田の立場が第4巻のこの論文にまで引き継がれている、ということです(1907年7月13日鈴木大拙宛書簡、および『純粋経験に関する断章』「断片32」16,554を参照)。

D

分かりました。
佐野
次に「カントの後に出たフィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥ったという非難は何處までも弁護することはできないが、又単に之をカント以前の形而上学に逆転したと考えるならば、早計たるを免れない」とありますが、「之」とは何を指しますか?

D

「フィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥った」ということではないでしょうか?
佐野
なるほど。

E

私は「フィヒテやヘーゲルの哲学」だと思いました。
佐野
私もそう思いましたが、どちらでも行けそうですね。「カント以前の形而上学」とは先程出て来たデカルトや、スピノザ、ライプニッツなどの哲学を指します。これらをカントの「批評哲学」が批判したわけです。そうしてカント以後、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった、いわゆる「ドイツ観念論」が展開されます。これらの哲学が一面で「形而上学に陥った」と言えるけれども、単純にカント以前に逆転した、というわけではない、と言っていることになりますね。これはどういうことでしょう?

F

分かりません。
佐野
文脈からして、おそらく西田は「理論理性の自省」という仕方で、カントの「批評哲学」の立場を基礎づけようとしたのが、ドイツ観念論だと考えているのではないでしょうか。まずはフィヒテが自我の自己定立(事行)という仕方で「自我」によって。この自我はなお客観と対立していましたから、さらにシェリング(初期)は、これを主客の絶対的同一性としての「絶対者」から基礎づけようとしました。この「絶対者」は「同一性」として「区別」に対立していましたから、「絶対者」を「同一性と非同一性(区別)との同一性」として動的・弁証法的に考えたのがヘーゲルでした。しかし彼らにあっては、「自我」にせよ「絶対者」にせよ、またしても形而上学的に対象化・実体化されてしまった、というのが西田の見立てなのだと思います。そうしてこれが現在でも「定説」なのかもしれませんが、少なくとも私には(少なくともヘーゲルは)そんな簡単にはいかないだろうと思います。次に参りましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(293頁12行目「二」~294頁7行目)
佐野
「知る」に「二つの方向」があって、それが「対象認識の方向」と「自覚の方向」であることが述べられ、この段落では「対象認識」が扱われています。4つ出て来ますね。何ですか?

C

「自然界の認識」、「合目的的世界の認識」、「心理的現象界の認識」、「歴史的世界の認識」です。
佐野
そうですね。「自然界の認識」というのは「物理学」を念頭に置いているでしょう。これに対し「合目的的世界の認識」は生物学、「心理的現象界の認識」は心理学、「歴史的世界の認識」は歴史学が念頭に置かれています。

C

「限定的判断」と「反省的判断」とありますが、どういうことですか?
佐野
カントの用語ですね。一般に「判断力」とは特殊を普遍(原理・原則)に包摂する能力ですが、普遍が与えられていて、特殊をその下に包摂する判断力が、「規定(限定)的判断力」で、逆に特殊が与えられているけれども、普遍は求められるものにとどまるのが「反省的判断力」です。そうした普遍は「ある・である」と直接法では語られず、「あるかのように」と接続法(仮定法)で語られることになります。「物理学」の場合には、例えば「因果律」のような「原則」のもとに、個々の特殊な現象が包括されるのに対し、「生物学」の場合、「生命」はそうした原則にはなりません。あくまで「いのちがあるが如くに」謙虚な語り口で語られることになります。

C

それが「自覚的形式の方向に傾いたもの」というのは、「生物」のうちに自分自身を見るということでしょうか?
佐野
そうだと思います。あくまでも「あたかも」ということになるでしょうが、私たち自身も「いのち」ですから、そういうことになると思います。それを言えば「自然界の認識」における、物や力も私たち自身が活動的な身体的存在ですから、それらのうちに(あたかも)自分自身を見ている、ということにもなりますね。それはともかく、生物の次は人間の魂(こころ)ですね。人間の主観的方面です。そうして「歴史」、これは人間の客観的方面と考えることができますね。そういうもののうちにも我々は(あたかも)自分自身を見ている、ということになります。

D

「新なる立場を加える」とありますが、どういうことでしょうか?
佐野
物やその運動を見る時と、生物を見る時では判断力の使い方が違っていますね。生物における様々な現象を我々は「生命現象」と呼んで、そこに恰も「生命」があるが如くに認識し、そのように語ります。「心理的現象」の場合も同様です。その場合はそこに恰も「こころ」があるかのように認識し、そのように語ります。これまでのこうした自然科学的な見方は、法則(普遍)を見出していく方向で対象を見ますが、「歴史学」のような人文学の場合にはむしろ、個々の出来事や個人が問題になるというように、見方が変わってきます。新しい立場に変わるごとに「立場の超越」があるけれども、「知識の外に出て行く」わけではない、とされます。そうした知識について、じつは(「自然界の認識」も含めて)「すべてが自覚の中に包まれて居る」と言える、というのがここでの西田の主張だと思います。ここから第2段落に移ります。Dさん、お願いします。

D

読む(294頁8行目~295頁1行目)
佐野
難しくなってきましたね。冒頭の「自覚というのは、知るものと知られるものとが一であると云う様に、対象的に認識することではない」をどのように理解したらよいでしょうか?

E

鏡のことではないでしょうか?
佐野
でも「見るもの」ではなく、「知るものと知られるものとが一」とありますね。鏡に限定されない気もしますが。

F

主客合一のことではないでしょうか。
佐野
しかし「対象的に自己を同一として認識する」という条件がありますね。テキストではこれを「同一」と呼び、それから「自己同一」を区別しているようです。「同一」とはどうやら対象に自己を一体化させることのようですね。何かに集中したり没頭したりする場合にはそうした対象に自己を一体化させることが考えられますね。しかしそのように対象に「自己」を奪われるような在り方は「自己同一」ではないと。もちろんそうした没入状態も我に返らなければ「認識」にはなりませんけれども。

E

反省的判断の場合にはそういうことが起っているのではないでしょうか?
佐野
生物を見てそこに自己を見る場合ですね。私の家には今、ポメラニアンのベラがいます。彼女はご飯を欲しがったり、散歩に行きたがったりします。私はそこに自分と同じ「いのち」を感じるのですが、その場合、おそらく「反省的判断」などというような面倒なことは考えてはいないでしょう。ベラは「あたかも」ご飯を食べたがっているかのようである、などとは感じない。もちろんどのように感じているのか、それは分かりませんが、もっとストレートに(直接法的に)そう思う。ただその場合でも、対象の側に自己を感情移入させているわけで、これは典型的な「同一」と言えると思います。これは生物だけでなく、他者における心理現象や歴史的現象についても同じように言えると思います。対象的に認識しつつ、そのうちに自己を同一化する仕方です。同じことは物理現象でも、つまり物の認識や力の認識でも言えると思います。我々が物や力を認識できるのはそこに我々自身を見出すからです。逆に言えば物や力は我々の存在や意志の投影とも言えるわけです。しかしそうした認識では「自己同一」(「自覚」)とは言えない、そのように西田は考えているようです。

E

それでは「自己同一」とはどういうものでしょうか?
佐野
それは次に書いてありますね。これがまた大変難しい。まずそれは「作用の自覚(作用の作用)」の方向だとされます。「従来の論文に於て云った如く」とあるように、この表現は、第4巻では「直観と意志」において見ることができます。西田の自覚の立場は、フィヒテの事行(Tathandlung)や、ロイスの例の「英国にいて完全なる英国の地図を写す」にヒントを得ていますが、目下のテキストで言わんとしていることは、描き終わった地図(対象)の方ではなく、その手前の、これから描こうとしている作用の直観(自覚)の方に「真の自己同一」がある、ということです。ここまで、大丈夫でしょうか?

E

はい。
佐野
「而して更に」と続きます。「作用ということを判断意識の立場より「働くもの」に於て論じた如く考え得るならば」と、今度は論文「働くもの」が出て来ます。論文「働くもの」は「働く」(作用)を「知る」(自覚)に包摂しようとしたもの(175頁)ですが、その際出立点を「判断的知識」に取りました(177,4)。その最後の部分では次のようなことが述べられています。ちょっと難しいのですが・・・

E

お願いします。
佐野
「判断」とは「一般的なるものが自己の中に自己を映す反省」ですが、映すものと映されるものが一つにならず、一般と特殊の間にどこまでも間隙が残ります。ちょうど英国の地図が先の方向へとどこまでも連なる感じです。ところがこの反省作用そのものが自己の中に映される「自覚の立場」ではそうした間隙がありません。英国の地図で言えば、描く手前を見ている状態ですね。「働くもの」の最後の部分では、そうした「自覚の立場」に「物と空間」、「働くもの(力)と力の場」など、後(「場所」論文)では「有の場所」と呼ばれるような段階を置いています。そうして「唯、意識の野という如きものに至って、一般的なるものが真に自己自身を無にすると云うことができる」(207,4-5)と述べられています。そこでは、「意識の野」は「絶対の無」とも呼ばれていますね。ここまで、いかがでしょうか?

E

それが今読んでいるところでは、「真の自覚の意識は述語的一般が無となること、即ち真の無の場所に求めなければならぬ」ということになるのですね。
佐野
そうです。この部分を読むにあたってのポイントはどこまでも、「対象認識の方向」と「自覚の方向」の区別です。これを引き継いで、さらに「述語的一般が対立的無として限定せられ得るかぎり、尚所謂知識的自覚に属する」と来ますね。これは主客の対立を残したまま、対象において自己を見る(自覚)立場です。先に「自然界の認識」、「合目的的世界」、「心理的現象界の認識」、「歴史的世界の認識」と順に出て来ましたが、そのどれもが世界の中に自己を見ているけれども、なお対象的・知識的に見ている、ということです。しかし「更に之を越えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘ずると考えられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである」とされます。究極的な西田の立場ですね。難しい問題が含まれていそうですが、今日はここまでとしましょう。
(第77回)
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知識を批評する知識の立場

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落288頁7行目「単に限定せられた述語面は」から289頁の最後までを講読しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである。」(288, 15-289, 2)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「一般的述語がその極限に達すること」は、限定せられた場所の外に出続け、場所そのものが真の無となることであろう。西田によれば、これは同時に「特殊的主語がその極限に達すること」であり、「主語が主語自身となること」である。一見するとこれら三つのことは同時に成立しないように思える。これら三つのことはいかにして同時に成立するのだろうか。また、「主語が主語自身となること」は「単に自己自身を直観するものとなる」ことなのか」(205字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります(今回はさらに左右田喜一郎の論文内容を加味して構成してあります)。
佐野
「三つのこと」とは?

W

「一般的述語がその極限に達すること」と「特殊的主語がその極限に達すること」と「主語が主語自身になること」です。
佐野
だとすれば「一般が一般自身になること」というのも隠れていそうですね(283,15-284,2参照)。ところで、これら三つが「同時に成立しない」とは、時間差があるということですか?啐啄同時と言いますが、実はそこには、真の無がまず現成して、そこから主語(個物、働くもの)が立ち上がるのか、主語が立ち現れることで、真の無が現成するのか、といった時間の差があるのではないか、という・・・

W

いえ。三つのことは別のことを言っているように思えるのに、それが同時に成り立つのはどういうことなのかなあ、ということです。西田を読んでいるとここで書いてあることもそんな気になるけれど、本当にそうかなあ、ということです。
佐野
我々は通常「一般概念(有の場所)」の中で当たり前のように分かった気になって生きているけれども、それが破れる刹那、無限に深い真の無の場所が開けると同時に、そこに一切の述語づけを拒むような主語が立ちあがる(「主語が主語自身となる」)、そこにおいて物(主語)となって見る(「単に自己自身を直観するものとなる」)というような境位が開ける、こういう体験の事柄としてこの箇所を読みたくなりますね。そうして何となく分かった気になってしまう。そこに違和感があると。

S

見え方が違ってくるということでは?対象物を見ているのではなく、もっと深いもの、実在を見ている、ということではないでしょうか?

W

そこなんですが、実在が見えていると言うと、それ以上の見方ができなくなってしまうように思うのです。

N

西田はそうした実在、物自体というか、そういうものを体験によって把握したのだと思います。やったーという感じではないでしょうか。

R

たしかに一般概念が破れ、言葉にならないものに出会えば、余裕はなくなりますが、西田はそれを論理化し得たという意味では、やったーという感じかもしれません。

W

一般概念が破れるうちは、見え方はどこまでも変わるのでは?有るがままの世界の景色は「それ」としか言えないと思いますが、「それ」ってどういうことでしょうか?
佐野
たしかに「それ」を把握して、これこそ実在だ、と言ってしまうともう違っていますね。私も音楽や剣道で、体験を通じて今度こそこれが音楽だ、これが剣道だという原点に到達した気にしょっちゅうになりますが、すぐに全部覆されますね。そんなことの繰り返しです。掴んだと思ったものは全部嘘だというのはよくわかる気がします。

K

主語が主語自身になる前の主語と、主語自身になった時の主語との関係はどうなるのでしょうか?主語が主語自身になる前の主語は「一般概念」に包まれているけれども、主語が主語自身になるとそうしたものがない、「真の無の場所」に包まれているということですよね。

S

最近、「今が大事」とか「今でいい」という言い方がよくなされますが、そういう感じで理解されていますか?僕は違和感がありますけど。
佐野
だいぶ時間が押してきたので、プロトコルはこの位にしたいと思います。感想ですが、言葉にならないような何かに出会った刹那、我々はそれでもそれを言葉にしなければまったく理解できません。その意味ではすべてが言葉であり、理解なのですが、それを破るような体験があるということも、言葉の領域においてであるにせよ、厳然とあります。それはあらゆる理解や分別を超えています。ですからそれを我々の「理解」と対立する「実在」とするのも、過去や未来と区別された「今」と理解することも、すでに分別が入っていると考えなければならないだろうということです。

R

主語自身としての主語とか、真の無という根底を何故「ある」と言えるのですか?
佐野
一つには、我々が日常的になしている判断、その可能性の根拠を求めていくと、矛盾的統一はそこまで徹底しなければならない、その意味でそうしたものがなければならない、ということがあると思います。もう一つは体験が基になっているということがあると思います。ですが、こうした体験は「ある」とも「ない」とも言えないものです。「ある」と聞けば安心するのはすでに有無の中で考えているからです。それでは今日の講読箇所に移りましょう。今日から「左右田博士に答う」ですね。左右田は経済学(経済哲学)者で、実業家でもありました。リッケルトのもとで新カント学派の哲学を学んでいます。ネットでご確認ください。また「左右田喜一郎 西田哲学の方法について」で検索すれば、目下の西田の論文のもととなった、左右田の論文を読むことができます。新カント学派の立場からの西田哲学の方法を批判したものになっています。30頁の論文ですので、関心ある方は各自でお読みください。西田の「働くもの」と「場所」から、そこに表出した「西田哲学(この呼称は左右田が初めて用いたものです)」の核心を要約し、更にその根本的な問題点を五つに分けて述べたもので、実に充実したものとなっています。この読書会では時間の都合上、残念ですが扱いません。それではAさん、お願いします。

A

読む(290頁1行目~7行目)
佐野
左右田博士の論文は批判哲学の立場からの手厳しい批判になっていますが、それを「近頃初めて理解あり、権威ある批評を得たかに思う」と西田が思うほどに、西田哲学を本質的に理解し、その上で内在的に批判したことが西田には余程嬉しかったのでしょう。「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に達し得たかと思う」とありますが、この「終」を具体的にどこと取るかは議論のあるところでしょう。もちろん一番最後の部分(第4段落末)を挙げることもできますが、ここはペンディングにしておきましょう。次をBさんお願いします。

B

読む(290頁8行目~291頁1行目)
佐野
知識とそれについての知識の二種を区別できるということですが、これについて「眼は眼を見ることはできない」という立場(反論)が考えられます。じつはこうした批評を左右田は西田哲学に対してしています。「知識が知識自らを解せんとする場合には知識を超えんことを要求するは、知識の範囲内に於て妥当する知識にとって必要且つ当然の歩みに過ぎない」(左右田24頁)が、その要求を西田は「理論理性の僭越を敢えてして居る」(同26頁)というのが左右田の西田批判の根本にあります。左右田にとっては、西田は眼を見ることができると主張していることになります。これに対し、西田はここで「知識」に「少なくとも種々の種類があり、種々の次位を区別し得る」と考えます。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(291頁1行目~5行目)
佐野
まず西田は「客観的対象を認識する」ことと、「主観的作用を反省する」ことを区別します。後者には「反省的知識の対象として之を知る」という立場が考えられます。前者には所謂自然科学、後者には内観法による心理学が念頭に置かれていると思われます。それでは次をDさん、お願いします。

D

読む(291頁5行目~11行目)
佐野
ここでは後者の中でもさらに高い立場に立つものとして「批評哲学」(批判哲学)が挙げられています。ここには心理主義への批判が念頭に置かれていると考えられます。心理主義は哲学的な認識の基礎に経験的な心理学を置こうとするものとして、新カント学派などによって厳しく批判されたものです。そうした心理主義を超える立場が「批評哲学」で、カントや新カント学派の立場です。しかし西田はこの立場をさらに「知識が知識自身を越えて何處までも深い立場に立つ」ことでなければならない、と考えます。こうして西田は意志や直観の立場に深まっていきますが、こうしたやり方に左右田は「「哲学の方法」としては余は力一杯反対したい」(左右田27頁)というのです。こうした批判は左右田が学んだ新カント学派の「批評主義」の立場からのものですが、西田からすれば自分こそが「徹底的批評主義」(旧全集第5巻184頁13行目)であると考えています。こうして西田は「知識」に「種々の次位」を認めます。その場合「知識自身を反省し批判する知識」はいかなる意味で「知識」と言えるのか、一層深いとか高いと言われる「批評哲学」の高さや深さがどこから来るかを問題にしようとします。それでは次をEさん、お願いします。

E

読む(291頁12行目~292頁7行目)
佐野
13行目に「避くべからざる循環」とありますが、どういう循環でしょうか?

E

一般的に言っているように思いますが。
佐野
さしあたりはそうだと思いますが、前文との関係ではどうなるでしょうか。前文は「理論理性によって知るということと、理論理性が自己自身を反省するということとは同一でない」となっていますね。それに続いて「避くべからざる循環と云っても、避くべからざる循環と知った時、それは単に同じ所に還ったということではない」と言われていますから、「避くべからざる循環」とは、「理論理性によって〔理論理性を〕知る」(眼が眼を見る)ということではないでしょうか。そうして「理論理性が自己自身を反省するということ」が「避くべからざる循環と知った時」に対応するのでしょう。

F

「批評哲学といえども、それ自身の内容を有って居なければならない。知識の形式を批評するという時、既に形式が内容となって居る」というのがよく分かりません。
佐野
通常知識は、形式と内容によって成り立つ、と考えられます。この場合の形式とは、空間・時間という感性の形式と、カテゴリーという悟性の形式で、内容とは感性的な質料(素材)です。批評哲学(批判哲学)はこうした知識の枠組み自体(知識の形式)を問題にします。そうなると批評哲学は「知識の形式」自体を内容として、これを批判吟味することになります。

F

何故そのような吟味が必要ですか?
佐野
我々は一定の枠組みに基づいて認識しています。しかしそれがたんなる先入見(偏見)であれば我々は物事を正しく認識することはできません。そこでそうした枠組みの批判吟味が必要になります。その上で我々はそうした枠組みを正しく用いなければならない、ということになるからです。

F

でも我々の用いる形式は「論理の形式」しかないのでは?批判吟味もそうした形式によって行うほかないのでは?
佐野
そこなんです。西田が今問題にしようとしていることは。「無論、論理の形式以上の形式があると云うのではない。併し形式によって考えるということと、形式自身の自省ということとは同一でない」と西田は考えます。そこに「新しい知識の意味」が加わると考えます。そうしてこれがおそらく、意志とか直観ということになるのですが、これに左右田が反発するのです。左右田からすればすべては知識であり、我々は知識を越えることはできない。それを越えて意志や直観を論ずることは理性の僭越・越権だというわけです。西田にしてみれば、すべてが知識だということは認めるにしても、そこに「次位」(判断、意志、直観)があるはずだ、というわけです。ここをどう考えるかはとても重要だと思いますが、先に進みましょう。Fさん、お願いします。

F

読む(292頁7行目~11行目)
佐野
ここで「自覚」という言葉が出て来ます。批評哲学」の「知識を批評する知識の立場」は「自覚的立場」であり、それは「積極的立場」をもっていなければならない、西田はそう考えます。そうして「その立場は単に形式によって対象を構成するという知識の立場ではない」、そのように言います。自我自体の認識を認めない(眼は眼を見ない)批判哲学の立場からすれば、「自覚的立場」の「積極的」な意義をこのように主張することは、やはり理性の越権だということになるだろうと思います。そこのところは措いておいて、次をGさん、お願いします。

G

読む(292頁11行目~293頁2行目)
佐野
ここで「真の自覚」が出て来ますね。西田が本当に言いたいことです。「自覚は自覚自身の内に深く反省して見なければならぬ」と西田は言います。後には「認識以前」の「体験」の語も出て来ます(293頁6行目)。そうしてこうした「体験」としての「理論理性の自省そのもの」の上に「批評哲学」の知識が立てられなければならない、西田はそのように考えます。その際、こうした「自省」ないし「自覚」を論ずるには、さらなる「自覚」(「自覚の自覚」)がなければならない、と考えられるかもしれないが、それはすでに「自覚」を対象化している、「自覚を対象的知識と同一と考え」ており、それは「空虚なる言辞に過ぎない」と断じます。左右田からすれば、対象化しないでどのように知るのだ、ということになると思います。今日はここまでとします。
(第76回)
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矛盾的統一の述語面

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」第4段落288頁の3行目「述語が主語を包むといふ考から云えば」から288頁の7行目「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」までを再読しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」(288,6-7)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「矛盾的統一の述語面に於てはじめて述語面が独立となるのである」の「独立」とはどのようなものか。働くものが考えられ、判断の矛盾を意識するとき、その述語面が「個」になると考えてよいか」(89字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
述語面は一般ですが、述語面において判断の矛盾を意識すると、その述語面が個になると考えてよいか、つまり矛盾の意識によって、一般が個になると考えてよいか、という問いですか?前回、Sさんは、赤をどれだけ限定しても、〈この赤〉には到達しない、一般から個には到達しない、とおっしゃっていましたから。

S

いえ、矛盾的統一がどういうものか、という問いです。
佐野
「矛盾的統一」の矛盾は「判断の矛盾」ですね。「判断の矛盾」では何と何が矛盾するのでしょう?

Z

主語と述語、具体的には個と一般、変ずるものと変ぜざるものの矛盾ではないでしょうか?
佐野
私もそう思います。一般からいかにして個に至るか、変ずるものをどのように考えるか、そういうことに西洋哲学は苦しんできたと思います。そこで「質料」を「個別化の原理」と考えたり、運動変化のもとに「基体」を考えたりして説明しようとしてきた。しかし西田はそれでは説明になっていない、さらにつきつめて考えて、個と一般の矛盾、変ずるものと変ぜざるものとの矛盾にまで至らなければならない、そう考えたのだと思います。もっともこうした「矛盾を意識」すれば「個」が出て来る、と簡単には考えられないと思います。「矛盾の意識」も論理の言葉であり、論理化(一般概念化)、意識化されているからです。個はそうした一般概念や意識が破れたところ、図も地もない仕方で個が立ち現れるものだと思います。西田が考えようとしたこともそういうことではないでしょうか。Sさん、これでいかがですか?

S

というより、述語面が独立するのはそれが矛盾的統一だからだからか?という問いです。
佐野
なるほど。普通に考えたら述語面の独立と言えば、主語面からの独立ですね。しかしここはそうではなく、述語面が主語面を包むような矛盾的統一であることによって述語面が独立するのだ、と。

S

そうです。
佐野
だとすると、さらに問いが出て来そうですね。主語面が述語面を包んで独立する、ということも考えられるからです。そこには何か深い意味があるのか、あるいは何か問題があるのか。

S

西田哲学の特質だと思います。
佐野
主語面ということでは「神」が考えられますが、そう言わずに述語面において「真の無」を考えたのは西田哲学の特質だと。

T

神の体験でも同じようなことが言えるのかもしれませんが、西田はそう言わなかった。
佐野
何故でしょうか?西田には「禅の体験」のようなものがあったからだとお考えですか?

T

ええ。書いている人(西田)にとっても求道であったと思いますが、悟った人が悟ってない人に分かるように書いてくれている、そんな感じがします。日常経験を超えた特別な経験がなければ書けない文章だと思います。
佐野
そうした体験が「神の体験」でなかったのは、やはり文化的な背景の違い、つまり東洋だからということになるとお考えですか?

T

ええ。そのことについて他にご意見はありませんか?

Z

述語面に重きが置かれるのは、西洋の主語=実体という思想から脱したいというところがあったのではないかと思いますが、この述語面が意識面とされているところが気になります。そのようにすると独我論にならないでしょうか?
佐野
難しい問題ですが、さしあたり言えることは、「意識」というものを「誰かの意識」と考えると独我論になりますが、そうではない、ということです。この「意識」は図に対する地のように、誰の意識でもないような意識です。デカルトの考える我やカントの意識一般もそうしたところがあると思います。ただ、こうした述語面(意識面)を真の無として独立させた場合、そこからすべてを例えば「意志」によって説明しようとすれば、別の意味で独我論が問題になるかもしれません。というのもそうなればそうした述語面が実体化されるし、またそこには他者が存在しないからです。

Z

もう一つ問題だと思うのは、「意識」を意識一般のように考えるにしても、そうした「意識」では「個物」を包み切れないのではないか、という点です。
佐野
個物を包む「真の無の場所」を風呂敷のように考えて、それが物を包むように考えるというわけにはいきません。そのように考えられた場所はすでに有です。この有の場所が一般概念として、我々が物を図として理解する場合の地になっているのです。我々は地がなければ図を理解することはできませんね。しかしその地をどこまでも一般化する、その先に真の無を考えるのです。そうなるともはや地はない。そこに個物が一切の理解を超えて立ち上がる、そのように考えるのです。我々は常に一般概念を地としてその中で初めて対象を図として理解できるのですが、そうした一般概念が破れたところでこういうことが起こり得るのだと思います。それは時に言語を絶した惨事であることもあるでしょうし、偉大なものとの出会いである場合もあるでしょう。

Z

その地に当たるものが「場所」なのだと思いますが、それがよく分からないのです。今日初めて参加したばかりなので。
佐野
今日多分、「場所」論文を読了しますが、最低限のことだけ確認しておきましょう。この論文の冒頭208頁に「有るものは何かに於てなければならぬ」とありますね。この「何か」が「場所」です。これは「場所」の「有論的テーゼ」と言っていいと思います。これに対し210頁5行目には「我々が物事を考える時、之を映す場所という如きものがなければならぬ」とありますね。この「場所」が「認識論的テーゼ」としての「場所」です。この二つのテーゼにおける「場所」に「有の場所」(初出は232頁4行目)、「対立的無の場所」(「対立的無」の初出は220頁1-2行目)、「真の無の場所」(初出は同12行目)が区別されるようになります。「有の場所」は「一般概念」とも言い換えられます。我々はこうした「一般概念」によって対象を理解することができます。「対立的無」とは主客対立の立場です。有=対象が意識を離れて存在するという立場における意識のことです。それに対し「真の無の場所」はこうした有無の対立を超えてこれらを内に包むものです。大雑把な説明にすぎませんので、実際に「場所」論文をお読みになるとよいと思います。

Z

少なくとも普通に考えられている「場所」が「有の場所」だということは分かりました。

R

「場所」の「有論的テーゼ」と「認識論的テーゼ」はどのように関係するのですか?
佐野
二つのテーゼを対立すると考えるのが「対立的無」の立場です。「真の無の場所」においては同じ一つの事柄の二つの側面でしかありません。

R

分かりました。
佐野
それではプロトコルはこれくらいにして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(288頁7行目~10行目)
佐野
「単に限定せられた述語面」とありますね。これは何との対ですか?

A

前文の「矛盾的統一の述語面」ではないでしょうか?
佐野
そうですね。「矛盾的統一」の述語面とは、主語即述語、個別即一般、変ずるもの即変ぜざるもののことでした。だとすれば「単に限定せられた述語面」とは、主語面から区別され、主語面と対立する「述語面」ということになりますね。287頁9~10行目に「一般概念が意識面に於てあり、特殊なるものが対象面に於てあると考えられる間は、働くものを意識することはできぬ」とありました。この場合「意識面」が「述語面」、「対象面」が「主語面」です。「単に限定せられた述語面は判断の根柢とはなるが、働くものとなることはできない」とは、例えばこの木の葉は赤い、は主述を別にして、述語をもとにして考えることもできるが、それだけでは「働く」ということが出て来ない、ということです。ここまで、よろしいでしょうか?

A

はい。
佐野
続いて「働くというのは主語面が述語面に近づくと考えられる如く、又述語面が主語面に近づくことである」とありますが、これも主語面と述語面を別々に考えて、両者が近づくというように考えてはいけないと思います。主語面と述語面が一つに重なっているところで考えます。

B

働くというのは主語面が述語面に近づく」というのが分かりません。
佐野
3行目にも「主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えること」とありました。ここでは〈犬は動物である〉のような包摂判断を考えていますから、主語が特殊で述語が一般となります。例えば〈この木の葉の色〉は一般で、〈この緑〉は特殊です。〈この緑〉が「働いて」変化していき〈この赤〉になる。こうして主語(特殊)が「働く」ことで〈この緑〉から〈この赤〉まで、つまり〈この木の葉の色〉がとりうる色の全範囲に近づいていきます。これを述語面から考えると、4行目に「述語面が自己自身を限定すること」とあるように、〈この木の葉の色〉が自らを限定して〈この緑〉や〈この赤〉に近づくことだ、ということだと思います。

B

分かりました。
佐野
そう読むと、次の「働くとは主語面を包んで餘ある述語面が自己の中に主語面を限定すすることである、包摂的関係を述語面から見ることである」も無理なく理解できると思います。次をBさん、お願いします。

B

読む(288頁11~12頁)
佐野
難しいですね。

C

ここでは意志、判断、働くものの順に出て来ていますが、ここにはグレードがあって、意志が一番深いということを言おうとしているのではないですか?

B

同一の事柄の三つの側面ということではないですか?
佐野
まずは、同一の事柄の三つの側面と読めますが、さらに考えて見ると、先程も問題になったように、述語面を本質的と見る西田の思考法からは意志が最も深い、と考えることもできそうですね。とにかくまずは読んで見ましょう。

C

はい。
佐野
「此故に」とはこれまでの叙述を指しています。「一つの包摂的関係はその主語面を包んで餘ある述語面からは意志」だとされています。前頁に「直観の場所から見た時、働くものとは之に於てあるものの自己限定として意志作用である」(3~4行目)とあり、さらにそれは「知識面」つまり「対立的無の場所」から見れば「無限の作用」(意志作用としての無限の作用)と見られるが、「無も之に於てある直観面」つまり「真の無の場所」から見れば「意志」(状態としての意志)である(4~6行目)とされていました。「働くもの」はその最も根源にまで遡れば意志だということです。〈この木の葉の色〉を考える場合に「意志」を持ち出すのは奇妙に思われるかもしれません。

B

たしかに。
佐野
しかしそれは我々がデカルト以後の物心をあくまで対立的に考える近代科学の立場で考えるからです。その立場からは物に心や意志があるとするのは、「太古人間の説明法」であり、「純白無邪気なる小児の説明法」(岩波文庫改版『善の研究』84頁)であり、「いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去る」(同)ということになります。しかし「エルザレムなどのいう様に、科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなる力があるという考は、自分の意志より類推したものである」(同83頁)というのは「実在の真実なる説明法である」というのが、『善の研究』以来の西田の考え方です。

B

すると〈この木の葉の色〉の場合、どうなりますか?
佐野
「一つの包摂的関係」とは〈この緑〉ないし〈この赤〉と〈この木の葉の色〉との関係です。後者(述語面)が前者(主語面)を包摂する関係です。この場合、「その主語面を包んで餘ある述語面」から見ると、それは述語面が主語面に向けて意志することだということです。この緑になろう、この赤になろう、ということです。

B

なるほど。
佐野
次いで「その主語面に合する範囲に於ては判断であり」とあります。この判断は「意志」としての判断です。以前にも「何處までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義に於て述語を主語とした判断である、判断を含まない意志は単なる動作に過ぎない」(282頁1~2行目)とありました。〈この木の葉の色〉が〈この緑〉を目的にして判断し、それになろうと意志することです。さらに「述語面の中に含まれた主語面に於ては働くものとなる」とありますが、これは〈この木の葉の色〉が〈この緑〉や〈この赤〉となって働くことです。このように理解して見てはどうか、と思うのです。

D

主客合一ということですか?
佐野
ある意味ではそうですが、「対象面と意識面、主語面と述語面とが単に一つとなってしまえば、働くものもなく、判断するものもない、かかるものが見られ得るかぎり、述語面が主語面を包むものでなければならぬ」(287頁12~14行目)とあったように、単なる主客合一ではなく、述語の方が主語よりその外延が広いのです。「餘ある」とはそういう意味だと思います。

E

餘ある述語が包むというのがよく分かりません。
佐野
それはEさんが「真の無の場所」のことを考えているからで、たしかにそのように考えると、風呂敷が何かを包むようになってしまいます。しかしここはまず有の場所で考えて見て、それを無限大に徹底する、そのようにしてはどうでしょうか。そのことが次に書かれてありますので、次を読んで見ましょう。Cさん、お願いします。

C

読む(288頁12行目289頁2行目)
佐野
「併し」とあって、「真の無の場所」の話へと飛躍します。そうして「述語面が自己を主語面に於て見るということは述語面自身が真の無の場所となること」だと。「自己」とは「述語面」自身のことですね。述語面自身が真の無の場所になってしまえば、見えるものは真の無しか見えないとも考えられますが、どうもそれだけではなさそうです。まずそれは「意志が意志自身を滅すること」だとされます。これは作用としての意志がなくなること、状態としての意志になることだと考えられます。こうしよう、というような意志が感じられなくなることです。そうすると、「すべて之に於てあるものが直観となる」と言うのです。自らが真の無となり、真の無としての自分を見ることが、同時に「之」すなわち「真の無の場所」に於てあるもの、個、働くものがそうした場所から立ち上がり、自分自身を見る直観となるというのです。それを受けて次に「述語面が無限大となると共に場所其者が真の無となり、之に於てあるものは単に自己自身を直観となることである」と述べられます。この「単に」には否定的な意味はないでしょう。純粋に、というような意味だと考えられます。どうですか?この辺り、やはり何らかの体験を踏まえていると思いますか?

F

そうですね。そうとしか思えません。
佐野
ですが、私はこれを禅の体験に限定しなくてもよいと思います。こういうことは芸術でも哲学でも起こり得る、あるいはそうした体験が芸術や哲学の表現のもとになっていると思います。ところで「述語面」、すなわち一般が真に一般になるということは、それがあらゆる特殊性、限定性を拭い去るということで、真の無になることです。そのように「一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである」とされます。述語が「述語となって主語とならないもの」となり、真に述語となることが同時に、主語が「主語となって述語とならない、真の主語となることであり、こうして真の述語が真の主語を包むという関係が成立することになりますが、これが西田をして、「「場所」の終に於て、私は多少従来と異なった考に到達し得た」(290,3-4)と言わしめたものと考えられます。いよいよ最後となりました。Dさん、お願いします。

D

読む(289頁3~6行目)

F

これで終わりですか?まとめる気もなさそうですね。たしかに同じことをらせんのように繰り返していますね。

G

しかも直観の問題には言っていないと言っている。
佐野
そうですね。前にも申し上げましたが、第5巻所収の「叡智的世界」に比べると直観(叡智)の扱いが十分ではなさそうです。まだまだ書かねばならないものを西田は見ているようですね。それではこれで「場所」論文を読了したことにしましょう。乾杯はオンラインということで、各自しておいてください。次回より「左右田博士に答う」に入ります。
(第75回)
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いかにして一般は個になるか

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻、「場所」の「五」の第4段落287頁7行目から288頁5行目までを講読しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「変ずるものが相反するものに移り行くということは述語として限定することのできない何物かがあり、之によって述語となるものが限定せられると共に、その物は又すべてに就いて述語となることを意味する。主語的に云えばそれは個体というべきものであり、述語的に云えばそれは最後の種というべきものものであろう」(287,15-288,3)でした。そうして「考えたことないし問い」は「働くもの・変ずるものを判断するには、主語面において「個体」、述語面において「個体」について述語となる「最後の種」を考える必要がある。西田はその両面をも「述語として限定することのできない何物」即ち「一般概念」が「自己自身を限定する」ことと考えている。また、働くものを判断するには「述語面が主語面を包むものでなければならない」とされる。「一般概念」の述語面の自己限定が如何にその主語面の自己限定を包むか?」(200字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。

O

「働くもの・変ずるもの」を理解や判断のレベルで考えるのではなく、何かが生まれる時に興味があります。

K

テキストでは「変ずるものを意識するには」(287,7-8)とありますね。意識するためには、主語面(対象面)が述語面(意識面)に附着して、しかも両者が単に一つになるというのではなく、述語面が主語面を包むものでなければならない、そのように書かれています。つねに「意識」や「判断」から考えられています。

O

その「単に一つになってしまえば、働くものもなく、判断するものもない」というところ、否定的に読むのではなく、そこに直観が残る、というようには読めないですか?

M

そこはやはり「単に」という言葉があるから否定的に〈判断が成り立たない〉というように読むべきじゃないかと思います。この「単に一つ」というのは、意識を失ったような状態とか赤ちゃんのような状態ではないでしょうか?

R

だから「述語面が主語面を包むものでなければならない」と言われるのだと思います。両者が同じ範囲で重なる(同値)ではなく、述語面が主語面より広いということです。そうでなければ変ずるものを見たり、判断したりできない、そういうことだと思います。ただ主語面での自己限定と述語面が主語面を包むということがどう関わるかが分かりません。
佐野
その場合、主語面と述語面を分けて考えていますね。「変ずるもの」を考える場合には「述語として限定できない何物か」がなければならないと言われる場合、この「何物か」は主語面と述語面を分けて考えることのできないものだと思います。「変ずるもの」ですから、一方に「変ぜざるもの」があって、他方でそれが「変ずるもの」として変ずる、そうでないと「変ずるもの」を考えられない、ということです。しかも両面は分けて考えられないということです。

A

まだよく分からないのですが。
佐野
個(個物)ということもそうですが、変化・動ということに西洋哲学は苦しんできたと思います。人間は言葉で考えます。言葉はつねに一般です。「個」、例えば「これ」と言っても言葉にすると、どれも「これ」になってしまう。これに対して「そうじゃない、一般としての個ではなく、個としての個だ」と言い張っても、どれもそうした個です。それで例えば「質料」というようなものをもって来る。「質料」を「個体化の原理」として考える。三角形自体にこの三角形もあの三角形もない。しかしそれをペンで書くと、紙とインクという質料によってこの三角形やあの三角形になる。とても分かりやすいですが、じゃあなぜ「質料」によって一般が個になるのか、と言えばやはりよく分からない。こうして我々は一方に一般の領域を置き、他方に個の領域を置いて、それを形相と質料で説明した気になっていますが、結局はすべてを言葉によって一般的に説明しているにすぎない。

A

なるほど。
佐野
同じことは変化にも言えて、言葉によって変化を説明することは難しい。例えば「ある」と「ない」。言葉の意味からすれば「ある」は「ある」、「ない」は「ない」で、両者は対立します。しかし「ある」が「ない」に行くことが「消える」、「ない」が「ある」に行くことが「生ずる」で、両者合わせて「変化」です。我々はこの「ある」と「ない」の間に時間差を設けて変化を説明した気になっていますが、変化の瞬間を問題にすればそんなに簡単に説明はできないことになります。また「変ずるもの」を考える場合は、その根底に「変ぜざるもの」がなければ考えることができない。形相と質料は先程の場合は「一般」と「個(特殊)」を説明するものでしたが、それを「現実態」と「可能態」に重ねることで、現実態が変化や動の原因と考えられ、質料がそれがそこにおいてある「基体」と考えられ、こうして運動や変化が考えられることになる。こうしたこともすべて「変ぜざる」言葉による説明です。そこを西田は問題にしようとした、一般と特殊(個)、「変ぜざるもの」と「変ずるもの」を「矛盾」ということで考えようとしたのではないか、そう思われるのです。そのように矛盾した「述語として限定することのできない何物か」が一方で主語として「変ずるもの」として、〈この緑〉や〈この赤〉という「個物」になり、他方で述語として〈この木の葉の色〉という「最後の種」になる、そのように考えるべきだと思うのです。

T

その「変化せざるもの」ですが、一方では変化を考えるには「変化せざるもの」のような物差しがなければならない、ということと、他方では同一の基体が存続している、ということの両方の意味があると思います。そうして変化は言葉で捉えられないということでしたが、言葉もそんなにカチッとしているわけではなく、巾があるのではないでしょうか?例えば赤の中にも朱色もあるというように。

S

そのように一般を限定していって〈この緑〉だとか〈この赤〉に到達するでしょうか?〈この緑〉は今ここにしかない色で、同じものが二つとないもののことです。我々の言葉や意識はそうした個には到達できないと思います。ですが我々はそのように判断している、そこから出発しているのだと思います。
佐野
「最後の種」から「個」に至るには一種の超越が必要ということですね。

M

「最後の種」は個ではないのですか?
佐野
いえ。類を限定して種になりますが、それが最後の種になっても、種は種で、一般です。そこと個の間には断絶があります。

O

それならなおさら、個やそうした個の変化というものは意識や判断には捉えられないものになるのではないですか?
佐野
西田は変ずるものの意識や判断から出発していますが、それが可能となるためには何がなければならないかを問題にします。こうしてようやく「述語面の自己限定はいかにして可能か、述語面はいかにして主語面を包むか」Rさんの問いに到達することになります。これはいかにして一般は個になるか、という問いでもありますね。西田はどう考えているでしょうか(これは次回考えましょう)。プロトコルはこのくらいにして、本日の講読箇所に移りたいと思いますが、最後の3行の考察がまだでしたね。Bさん、お願いします。

B

読む(288頁1行目~3行目)
佐野
ここは少しおかしな文章になっていますね。その前の文章では「主語的に云えば」と「述語的に云えば」と対になっていたのに、ここでは「述語面から云えば」はあっても「主語面から云えば」という句がない。「述語が主語を包むという考から云えば」という句はありますが、これは「主語面から云えば」とは言えない。そこでこの句は両面にかかるものと考えてみたらどうかと思うのです。つまり「述語が主語を包むという考から云えば、〔一方で主語面から云えば〕主語が無限に述語に近づくことが働くものを考えるということであり、〔他方で〕述語面から云えば、述語面が自己自身を限定することであり、即ち判断することである」というように読んでみては、と思うのです。そうすると、「述語が主語を包むという考から云えば」、包摂的判断で考える、ということですね。その場合、「主語が無限に述語に近づく」とは、主語面と述語面が区別されていて、それが近づいていくということではなくて、主語面と述語面が附着している一つの面を考えて、その上で主語、つまり〈この木の葉の色〉が〈この緑〉になったり、〈この赤〉になったり、無限に動くんです。もちろん、〈この木の葉の色〉の範囲内ですから、ピンクにはなりませんが。そのように〈個〉が無限に働いて〈この木の葉の色〉という「最後の種」に近づくことになります。「述語面から云えば」どうなるでしょうか。それは「述語面」の自己限定であり、それが「判断する」ことだ、ということになります。今日は先に進めませんでしたが、有意義な議論が行われたと思います。ここまでとしましょう。
(第74回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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