時に於いてあるもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「知るもの」より前文と「一」の第2段落326頁3行目「意味するのである」までを読了しました。今回のプロトコルはNさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「所謂知的作用は却って意識作用の一種と考えることができるであろう」(324頁最終行)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「知的作用」とは所謂「意識作用」であり、「狭義」には「判断」や「認識作用」等が該当するが、「之に反し広く云えば」、知がいわば知情意全体の「意識作用」を含むようにもなる。しかも、それが前掲文の「却って」云々という独特の書法で強調されている。一体これはどういう事態であるのか?」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。

R

「却って」が「独特の書法で強調されている」とありますが、どういうことですか?

N

一つには、通常、知と情意は別だと思われているが、実は一つであること、もう一つは情意も知に入るという、知性の専制主義がそこにある、ということです。つまり知が情意を仕切っているのです。この知は西田の言う知で、『善の研究』で言う、「夜の見方」に対する「昼の見方」です。夜の見方とは自然科学的な見方ですが、これを克服して事物をありのままに見るには西洋的な知を転換しなければならない。直観的な知ですが、抽象的な知をもそこに含めようとした、それが西田の言う知です。

Y

「知性の専制主義」が西田の立場だということですか?

N

そうです。この知は直観、自覚、反省すべてを仕切るものです。

Y

体験・経験が重視されていない、ということですか?

N

それも直観される、ということです。

T

知が上にある、ということですか?

N

そうです。

T

(西田の場合、知よりも情意を上に置く傾向があると思うので)ここではそうした上下ではなく、広い意味の知とはすべてが「意識される」という意味で知である、という範囲の問題ではないですか?

N

いや、知が上から、かつ底からという意味で「知性の専制主義」です。知を意識と言い換えて「意識の専制主義」と言ってもよいが、その場合無意識をも意識化しようという気合があります。物自体をも認識するくらいの気合です。
佐野
「知性の専制主義」に対するアンチテーゼは何ですか?

N

一つにはヒュームが「知性は情念の奴隷である」と言ったように、「懐疑主義」があります。もう一つは知性で表現できないものとして、夢や神話、恋心などを重視した「ロマン主義」があります。もう一つ付け加えるならば、「支離滅裂」です。私はこれを先日の「3.11.のマーラー」で経験しました。ここにはベートーヴェン的な、最後は歓喜と言ったようなものは一切ない。
佐野
西田哲学には最後の所で歓喜がある、ということですか?

N

救い・歓喜があります。

W

私は最近「我を忘れる」という事態をどう考えたらよいか、考えているのですが。

N

そこにも知性が働いている、というのが西田の「知性の専制主義」ですが、同時に西田の知性は、悩み、考え、組み替え、それを読者にぶつけるという仕方で真理を明らかにしようとする、謙虚な専制主義です。

T

だとすると、先ほど挙げられた「懐疑主義」、「ロマン主義」、「支離滅裂」といったアンチテーゼも知性に取り込まれてしまいませんか?

N

西田は取り込んでいると思っていたかもしれない。懐疑主義における懐疑も、懐疑のための懐疑ではなく、そこには真理を知りたいということがある。ロマン主義にしても、デカダンスにしても、その根底にはやはり真理を知りたい、ということがある。
佐野
そうなると改めて「知性の専制主義」に対するアンチテーゼが何か、が問題になりますね。

N

中原中也のような。
佐野
芸術ですか?

N

そうです。芸術です。
佐野
哲学に対するものとして、芸術とならんで宗教も挙げられますが。

N

宗教は(現実的な勢力としては)いかさまが多い。金を集める、票にするといったことを目的とする側面があるので、私は「知性の専制主義」に対するアンチテーゼとしては、宗教は留保したい。
佐野
しかし、それはさておいても、哲学、芸術、宗教というように分けるのも、またしても知性(哲学)だということになってしまいそうですね。プロトコルはここまでとして、講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(326頁3~10行目)
佐野
ここでは「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」(325,3-4)が問題になっています。物理現象から(生命現象を経て)意識現象がどのように成立するかを論じているように見えますが、そうだとすれば難しい(無理だという)感じがしますね。それはともかく、まず「右の如くに考え得る」とあるのは「論理的に」(325,15)ということですね。つまり判断論的・言語的ということです。その場合には「時に於てあるもの」と「時の関係」がなければならないことになりますが、そうすると「時に於てあるもの」が「意味を含むと云うことはできない」とされます。この「意味」というのが何を意味するかは文脈で考えるほかないのですが、とりあえず例えば「仏像」を物理現象として見るか価値(信仰の対象、鑑賞の対象)と見るかに違いがあるとすれば、意味とはこうした価値のことである、としておいて読み進めてみようと思います。ここまでで質問はありますか?

A

大丈夫です。
佐野
「時の関係」とは前後・同時ということですが、ここには意味(価値)は含まれない、ということですね。そこに「於てあるもの」つまり「物」には赤とか青という「性質」はあるだろうが、これもそれだけ取ってみれば意味(価値)を含んでいない、と述べられます。時の関係(前後・同時)を「物に附けて先在性、後在性、同時性といえば、意味ではなくその物の属性となる」とありますね。

A

人間を物のように考えれば、兄か弟か双子か、ということですね。
佐野
そうですね。人間の場合は意味が出て来てしまいますが、物の属性としての先在性・後在性・同時性などには意味はない、ということです。最後の「時に於てあるものが意味を含むと云うことができないとすれば、時以外の関係に於て〔意味を含むと〕云うのであるか、又は時の関係其者に属すると考えるの外ないであろう」というのは読みにくいですが、ここでの問いが「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」であることを考えると、「時以外の関係」に意味を含むと言っても問いに答えたことにならないだろうし、「時の関係其者」に意味が属するなどと言えば不合理なことを言うことになるだろう、ということでどちらも〈ありえない〉ということだと思います。次をBさん、お願いします。

B

読む(326頁11~15行目)
佐野
今度は「時に於ける変化が意味を含むと云うことができるであろうか」と来ますが、何かこれも無理そうな感じがしますね。しかしまあ読んで見ましょう。まず「変ずるものの根柢には変ぜざるものがなければならぬ」とされます。「変ぜざるもの」は「時の背後」になければならないことになりますが、その例が「物」だとされます。しかし「物」は「性質」をもつことはできても、「意味を含む」とは言われない。また「物は既に時の外にあるもの」であるから、仮に意味を含むとしても、上の問いに答えることはできません。結局「時の背後」の「物」は却下です。次をCさん、お願いします。

C

読む(327頁1~4行目)
佐野
今度は「時の背後」ではなく、「時に於て現れる連続的要素」つまり「変ずるもの」そのものの「中に」「不変なるもの」がないか、が考察されます。例えば木の葉が青から赤に変わったとして、「木の葉」を置くのは先の「物」を置く立場ですが、今度のはそういうものを置かずに、青から赤に変わった、というところだけ見る。そうするとそこにおける「不変なるもの」とは「色」だということになる。しかし「色」は「木の葉」が「物」という主語的(それが様々な色を担うという意味で)一般者だとすれば、「述語的一般者」だということになりますが、これは「類概念的統一」で、こうした統一をしているのは主観ということで、「主観的統一」に過ぎない、ということになってこれも却下です。次をDさん、お願いします。

D

読む(327頁4~7行目)
佐野
以上は「物」関連です。その前半が物・主語で後半が性質・述語です。それに対し今度は「力」です。「力」を「時の背後」に置けば「物」と一緒ですし、「変ずるもの」の中に、例えばf=mαのように、「時間空間質量の数学的函数」を置けば、これらはみな概念ですから、この函数もやはり「主観的統一」ということになって、「力」も却下。次をEさん、お願いします。

E

読む(327頁7行目~328頁11行目)
佐野
今度は「時に於て変ずるもの其者」において「不変的なるもの」を求める場合です。「物」を外に置かずに、「性質的一般者が内に時の変化を包む」と考える場合です。

E

この「性質的一般者」というのは先程出てきた「述語的一般者」と同じと見ていいですか?
佐野
私もそうではないか、と思っています。皆さん、いい感じで文脈の中で考えておられますね。

E

そうでないと読めませんから。
佐野
それはともかく、もう一つの考え方がありますね。

E

「時其者を性質的と見て性質時というものを考える」場合です。
佐野
そうですね。前者が主観的なものから客観的な変化が出て来ないかを論ずるもの、後者が客観的な、「不変的なるもの=性質時」から変化が出て来ないかを論ずるものです。これは、「時其者」を不変な「物」のように考え、それが「性質」をもつことによって変化を説明する、という立場です。前者から見て行きましょう。まず「性質的一般者」が「類概念的なるもの」と言い換えられていますね。主観的だということです。

E

類概念がどうして主観的だということになるのですか。
佐野
これも文脈で考えるとそうなるということです。深く考えればいろいろ考えられると思いますが、まずは文脈に沿って相手の言うことを理解しましょう。今の場合、例えばこの犬やあの犬は客観的で、歩いていますが、類概念である犬一般は歩いていませんね。その程度の意味だと思います。次に行きますが、テキストではそれ(「類概念的なるもの」)は「時を離れたもの」、「意味に属するもの」でなければならない、とされています。

E

この「類概念」は「時」に関するものですから、「価値」とは異なるように思いますが。
佐野
そうですね。しかし西田は概念(言葉)に関するものはすべて価値を志向している、と考えていて、その価値は善美のみならず、真(真理)をも含むと考えればどうでしょう?

E

考えて見ます。
佐野
類概念的な時は「意味」に属するもので、客観的な時を離れているが、これがどのようにして時そのもの、あるいは時に於てあるもの(個物:この〇〇)に到達するか、これが問題になっています。「類概念的統一は述語的統一である」と述べられていますね。ここでは主語=客観的、述語=主観的という図式で考えられていますから、「述語的統一」は「主観的統一」と同義です。そうして「一般概念を如何に分化していっても個物に達することはできない、即ち時に於てあるものに到達することはできない」とされます。「最後の種」もなお「一般的」であると。個物、あるいは時そのものに達するには超越・飛躍が必要みたいですね。ここまでで質問はありますか?

E

大丈夫です。
佐野
次ははじめに「〔一般〕概念を」を補うと読みやすいと思います。直前に「最後の種」と出て来ましたが、そこからどのようにして個物に至るかを考える場合に、「概念自身の中に矛盾発展を含む」と考えたらどうか、というわけです。概念が特殊と一般の矛盾を含む場合、それは「特殊は一般である」という矛盾にまで発展しますが、これが判断だというのです。その場合この「特殊」は「個」になりますから(「ソクラテスは人間である」)、こうして個物にまで達するではないか、というわけです。しかしこれはなお「判断的関係」であって「判断作用」ではない、そう西田は言います。

E

「判断作用にまで達することはできない」とはどういうことですか?
佐野
「判断的関係」は時間の中にありません。例えば「ソクラテスは人間である」は時間を超えて成り立つ真理です。これに対し「判断作用」は時間のうちに生滅する出来事です。

E

分かりました。
佐野
ここまでが「変ずるもの其者」において「性質的一般者」を「不変的なるもの」と見る見方ですが、これでは「変ずるもの」が出て来ない、ということでこれも却下です。ここからは「時其者」を「物」のように考えて、それが「性質を有つ」と考えるやり方(「性質時」)です。ここも、我々は通常そのように時間を見ていない、ということで通常の見方としては却下されます。「性質時」を考えるためには、「時其者」を主語として、そこに「一度的と考えられる時」を性質的に区別・述語する、ということが成り立たなければならないけれども実際にはそうなっていない。どうしているかと言えば、まず「時の種々なる差別」を包む「時の類概念」という「単に性質的一般者」を「時の背後に置いて見ている」のであって、その時には「時其者を主語として居る」のではなく、「唯種々なる変化を考えて居る」のだとされます。どういうことかというと、「時其者の性質」の区別としては長短と前後(・同時)が考えられるけれども、まずは「長短」が取り上げられています。その場合「時に於てあるもの」を「同質的」と見て、それによって「時の長短を比較」しているというのです。どういうことでしょう?

E

例えば、地球の自転公転ではないでしょうか?
佐野
そうですね。まさに「時に於てあるもの(地球)」の「種々なる変化(自転公転)」を考えていることになりますね。その変化を「同質的」と見て、そこから「時の長短を比較し」て、「時の類概念(性質的一般者)」という主観的なものを考えて、これを「時の背後」に置く、ということでしょう。これは「時其者」を主語として考えているのではない、ということになります。次いで時の前後に関して、「時其者を考える」場合が論じられています。その場合、「時を固定」して見ている、というのです。時の空間化ですね。つまり「時を固定せる要素から成り立つものとして、その要素を比較する」というのです。これも主観的な時ですね。こうして「いづれにしても長短とか前後とかいうことは時の変化其者を主語とするのでない」と結論付けられます。通常の見方では時其者を主語として見る見方は出てきそうもありませんね。今日はここまでとしましょう。
(第99回)
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知るもの

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第8段落320頁14行目「カントの認識主観については」から323頁4行目「空しくせざらんことを」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「私は単に無の概念を弄して居るのではなく、述語面を意識面と考へ、概念的に限定することのできない最終の述語面が所謂直覚的意識面であって、之に於てあるものを自己自身を見るもの、所謂主客合一なるものと云うのである」(322頁10~12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田によれば、「無の場所といふのは、一般概念として限定せられないといふ意味に過ぎない」(322, 9)。このように一般概念によって限定され得ない述語面こそが、西田のいう「直覚的意識面」である。これにおいてあるものは「自己自身を見るもの」、すなわち「主客合一なるもの」といわれ(322, 12)、これにおいてあると云うことが「知る」ということである(316, 2)。しかし、無の場所において「ある」ということと、これにおいてあると「云う」こととの間には、どこまでも埋められない間隙が生じるように思われる。「自己自身を見るもの」と「知る」ということは、無の場所において、どのように関係しているのだろうか」(285字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「意識面に於てあると云うこと」ないし「自己自身を見るもの」、「所謂主客合一なるもの」は直観と言い換えることができますね。それと「知る」ということの間には「どこまでも埋められない間隙が生ずる」と。しかし西田は根本的には「知る」とは「直観」と同一で、それは「無の場所」に於てある、と考えていると思いますが。

W

「直観」とは「無の場所」に「ありのままに映す」ということだと思いますが、そうしたものを根本に据え、前提すると、それ以外の見え方がありえなくなってしまうと思うのです。
佐野
それは直観に関することですね。それと「知る」との関係は?

W

「ある」というのは驚きだと思います。それと「知る」ということの間に間隙・ズレがから驚きというものもあるのだと思います。
佐野
「知る」ということと「云うこと」が関係してきますね。西洋哲学の伝統には言葉にすることができなければ知っているとは言えない、という思想があります。そういう問題ですか?

W

言葉の問題というよりは、「ある=知る」としてしまえば、そこが到達点となって、それで終わってしまうと思うのです。
佐野
驚きにレベルの差があるということですか?

N

あると思います。実在=直覚は測り知れないものであり、そこに知るとあるとの間の間隙がある。間隙を超えた間隙をつねに感じる。それを言葉にしていくのが哲学だと思います。無知の知というより、不知の知をつねに感じ、これを死ぬまでやる。

S

「知る=ある」を完全なものと考えなくてもよいのでは?「ありのままを見ている」ということを完全だという必要はない。「ああ、そういうことか」、それだけということの方が大事で、それを西田が言いたかったのでは?

N

いや、西田には完全でなければ済まない、というところが根底にあり、それが彼の哲学を押し進めている。

S

そこを離れる見え方がある、西田はそれが言いたかったのではないでしょうか?

N

人間は執着を離れられるものではない。だからこそそのつどの驚きがあり、常に間隙を生ずる。こうした不知の知が哲学の節度というもので、哲学はそれを言葉にしていく。これに対し、宗教は涅槃、成仏、悟りといったように到達点がある。そうしてそれを伝えるのに言葉は不可欠というわけではない。
佐野
話がとても面白いところに来ていますが、プロトコル担当者に一旦お返ししましょう。

W

純粋経験から様々な見え方が分岐していくるわけで、そうした見え方の手前に直観、「知る=ある」ということがある。だけどそれは上がりのようなもので、そうなると驚きがなくなってしまうと思うのです。
佐野
むしろ「知る=ある」ということこそが「驚き」なのでは?「知る=ある」を「上がり」だとするのはすでに反省の立場で、同様に「驚き」にレベルがあるというのも驚きを反省したもので、その時点ではすでに驚いてはいません。「知る=ある」ということを反省して、「自分の体験」というようにすると、そこにはまだまだ、というようなことが出てくるでしょうが、「知る=ある」の直観をどこまでも「自分の」理解を破るという仕方で与えられたものと考えるならば、そこにレベルの差はありえないと思います。

W

西田にはそうした純粋経験を前提とするところがあるような気がします。

R

純粋経験は前提ではないと思います。純粋経験と間隙は同時だと思います。純粋経験や直観を前提(根本)に置くというのは、西田の『善の研究』以後の中期の立場に見られるものですが、人間は直接にそうした立場に立つことができません。そうした自分の在り方、ありのままを見ることができない自分というものが見えてくるのが直観だと思います。
佐野
まだまだ続きそうですが、プロトコルはこれ位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(「知るもの」前書き)
佐野
これはそのまま受け取る他はないですが、「具体的一般者」について確認しておきましょう。特殊と一般が対立するのが「抽象的一般者」です。その場合、一般は特殊と同列になり、それ自身が特殊になってしまう。そうでないのが「具体的一般者」で、この場合は、一般が特殊を包むことになります。ここではその特殊と一般の関係が主語と述語の関係を含み、その結果「主語となって述語とならない個物的なるもの」を包むものが「判断的一般者」とされていますが、この説明自体は「具体的一般者」の説明になると思います。この「具体的一般者」を「此論文の前半」では「単に判断的一般者」と考えた、というわけです。しかし「四」の終わりにおいて、「具体的一般者」を「推論式的一般者」と考えるようになった、そういうことだと思います。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(「一」の初めから324頁終わりまで)
佐野
ここはとりあえず分かりやすいですね。「知る」ということに広狭あり、狭義の「知る」が、「判断」「認識作用」で、広義の「知る」が「意識作用」で、これは「知情意」を含むということですね。だから「知る」といっても広義の「知る」は、知情意の一部ではなく「却って」それらを含む「意識作用」だと言うのでしょう。次をCさん、お願いします。

C

読む(325頁1~7行目)
佐野
前段落で、「意識作用」が出てきたところで、それがどういうものかを述べようとしています。作用とは一般に「時に於て生滅する出来事」であるが、そのうち意味を含むものが「意識作用」、含まないものが物理現象、そう言っているように読めますね。そうして「意味とは時を超越したものでなければならぬ」とされ、「時に於てあるものが如何にして時を超越する意味を含むことができるか」と、改めて「意識作用」が如何にして可能かが問われています。

C

意味が時を超越する、とはどういうことですか?
佐野
この「意味」がどういう意味かは文脈で考えるしかありませんが、初めはいろいろな可能性を考えて置き、それらを括弧に入れて読み進めるというのがいいと思います。例えば「意味」は「存在」と対比させて考えることもできます。新カント派のリッケルトは「意味あるいは価値があらゆる存在の前に、あるいは上にある」と言いましたが、その場合「ある」というのも、言葉を離れた現実の「存在」ではなく、言葉の「意味」だということになります。この立場だとあらゆるものが言語であるということになりますが、ここでの西田はそうした立場を取っていないようです。意味を含む意識作用の他に意味を含まない物理現象を考えているからです。いろいろな可能性がありますが、これ位にしておいて次を見てみましょう。「時に於てある」とは「時に於て現れるものが前後とか同時とかいう如き時の関係によって統一せられると云うこと」だとされます。そうしてこういう意味において「厳密に時に於てあるもの」とは「無意義なる要素の外面的結合」という如きもの以外にない、と言います。「無意義」とは「無意味」と同じと考えてよいと思います。例えば仏像を単に物体と見る場合などが考えられます。そして改めて「物理現象の如きもののみ時に於てあると云うことができる」とされます。そうなると上の問いは、「意識作用」も作用としては物理現象であるが、それが如何にして「意味」を含むのか、という問いになりそうですね。次をDさん、お願いします。

D

読む(325頁7行目~326頁3行目)
佐野
赤、青といった「物」の「性質」と、(空間的)前後左右(あるいは時間的)前後同時と言った「物」の「関係」とが区別して論じられています。「性質的異同」、つまり性質的な関係(赤と青は異なるなど)において、性質は物に属するから、性質的な関係は物から切り離して考えることはできないけれども、上記の空間的時間的「関係」は物から切り離して考えることができる、と述べられます。

D

次の「無論」から「考えることができるでもあろう」までの一文は西田の主張ではないですね。
佐野
そうですね。カッコに入れて読むといいと思います。それにしても読みにくいですね。「之に反し」の前後で対立する考え方が述べられることになります。前半は「物」を解消し、赤や青といった色を含め、性質をすべて「関係」に還元する立場ですが、具体的にどういう立場を念頭に置いているか分かりません。後半は空間的時間的関係をも含めてすべてを物の性質(さらには物)に還元する立場で、これは「ある物理現象について論ずる時、物理的世界を主語として述語する」とされた「ロッチェ」(ロッツェ、120頁)が念頭に置かれていると思われます。物理的世界を一つの「物」と考える立場です。ですがここではどちらの立場も取られません。〈物なくして関係なし、関係なくして物なし〉、という立場が取られることになります。そこで「併し我々が論理的に考える時」と続きます。

D

「論理的」とはどういう意味ですか?
佐野
これも文脈で理解しないといけませんが、後を読むと「判断的知識」の立場で論じていますから、「論理的」とはロゴス的つまり「言語的」ということかもしれませんね。「関係の項」(物)なくして関係なし、「対立」(関係)なくして物なし、ということで、「判断的知識とは物と物との関係の知識である」とされます。そうして「主語」が関係の項、「述語」が関係を意味する、とされます。今日はここまでとしましょう。
(第98回)
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具体的一般者、反省的一般者(抽象的一般)

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第7段落319頁15行目「以上述べた如く」から320頁13行目「含まれて居なければならない」までを読了しました。今回のプロトコルはRさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自己の中に自己を映す鏡」(320頁 12行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「その場合、絶対無(場所)も個物(認識対象)も認識主観も同一で自己そのものであるが、絶対無・一般が自己否定して個物・有となるには、自己だけではなく、他者がそこに入るのではないか」(87字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
認識主観を絶対無と見て、すべてが認識主観内の出来事とお考えのようですね。そこには他者が出て来ないと。

R

そうです。
佐野
限定された一般者(認識主観)が絶対無へと超越する場合に、限定された一般者の破れがあるわけですが、そこには限定された認識主観にとっての他者が必要だということですね。

R

はい。
佐野
そうだとすると、認識主観に限定された一般者と絶対無を区別しなければなりませんね。

S

この他者は弥陀の本願みたいですね。限定せられた認識主観が衆生で。
佐野
そうですね。これは絶対者と絶対無の問題になりそうですね。『善の研究』ではその第4編で絶対者と我々の自己との関係が問題になり、両者の逆対応的な関係から両者の合一がなされています。そうした宗教的覚悟を受けて、と私は解釈していますが、第1編冒頭の純粋経験が事実ありのままの知として立ち上がってきます。ここには逆対応を受けての平常底のようなものが見られます。このように『善の研究』と晩年の『宗教論』には、我々の自己と、それに対する他者との関係が出て来ますが、『善の研究』以後の、自覚、場所といった西田の思想的展開の中に他者は出て来ずに、西田は直接に純粋経験、自覚、場所の立場に立ってそこから哲学しようとしている傾向はあると思います。その意味でRさんのご質問は何となく理解できますが、大きな問題になりますね。プロトコルはこの位にして講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(320頁14行目~321頁8行目)
佐野
カントの認識主観では純粋統覚(統一作用)と意識一般(図に対する地)が一つになっていましたが、リッケルトは明確に認識主観を作用に限定した、そう西田は批判します。そこで「むしろカント自身の考を維持したい」と言いつつ、「唯カントも主客の対立を基とし、知ることを作用と考えることから出立した」と批判します。「尚一層深く広い立場から出立したいと考える」とあるのは、「意識一般」から出立したい、ということでしょう。またリッケルトが「所与の原理」を認めなかったのに対し、カントが『純粋理性批判』において感性的な所与(知覚の所与)を認めたことを一方で評価しつつ、「カントの如く所与の原理を単に知覚に限りたくない」とカントを批判しますが、カントの立場から言えば、『実践理性批判』を考慮に入れていない、ということになると思います。その場合感性的なもの以外の所与とは道徳律、つまり「善を為せ」という命令です。所与といっても実践理性が感性的な存在でもある人間に課すものです。これを人間はつねに自分にとっての善にしてしまいますが、これが通常の我々の意志です。ですからカントは所与を知覚に限ったというのは正確ではないと思います。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
次にフィヒテ以降の「独逸唯心論」つまり「ドイツ観念論」の傾向について述べられていますね。新カント派はこれを「形而上学的」だと言って排斥した、と書かれています。この「形而上学的」の意味を西田は、「客観的思惟の方面を基として、主観的思惟をその一面とのみ考えた所」に認めています。西田からすればカントの統覚も作用として、すでに対象化されたものです。それを受けてフィヒテはこれを「自我」というように実体化し、さらにシェリング、ヘーゲルは「絶対者」とした、これが「客観的思惟」の意味だと思いいます。客観的と言ってももちろん「思惟」ですから、「主観的思惟をその一面」と考えることになります。「自我」ないし「絶対者」が思惟をもつ、ということです。

A

神が考える、というようなことですね。
佐野
そうです。これに対し西田はこうした客観化・対象化をしないで、どこまでも「判断意識」つまり「意識一般」の立場を離れないで、具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考えることによって、認識論的立場を維持したいと思う」とします。自分は「形而上学」をやっていない、ということです。

A

「具体的一般」とは何ですか?
佐野
「具体的一般者」ないし「具体的一般」の概念は西田の中で変遷がありますので、そのつどのコンテクストから読み取らなければなりません。以前(316頁11行目)にも出て来ましたが、ここでは意識作用と意志作用です。対象的・主語的なものです。「背後」とは「述語」つまり対象化されないものことです。前者を図、後者を地といってもよいと思います。具体的一般とは特殊を含む一般のことです。自己限定して特殊になる一般のことです。これに対して、特殊に対してあくまで一般であるのが「抽象的一般」です。先に「一般が特殊を自己自身の限定として、之を自己の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、単に特殊が之に於てある無なる場所となる」(320頁10~11行目)とありました。ですから「抽象的一般」とは「無の場所」のことです。

A

分かりました。
佐野
西田は自分は「形而上学」をやっていないが、左右田博士は「die blosse metaphysische Übertragung der Erkenntnislehre(認識論の単なる形而上学的転移)」と言って自分を批判するけれども、リッケルトの立場以外を形而上学と呼ぶんだったら、そう呼んでもかまわない、そう言っていますね。それでは「六」に入りましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(321頁10行目~322頁終わり)
佐野
まとめですね。西田は自分の「場所」が対象化されないものであることを主張します。左右田博士が「場所」は「有とは考えられないか」とか「有でも無でも正しいとは思われない」と言っているのは、私のいう所の「場所」を対象化(=形而上学化)しているからだろう、というわけです。しかし左右田博士からすれば、「無の場所」と言った時点で対象化されてしまっている、と言いたいわけで、これはこれでもっともな言い分だと思います。人間は対象化されない領域(生の領域)に生き(存在し)ながら、「知」としては対象化しかできないし、そこを一歩も出ることもできない。こうした矛盾を抱えているが故に、そうした知の領域が破られる、ということが起こりうる、そうした存在だと思います。それはともかく、テキストで何か分からないところはありますか?

B

大丈夫です。
佐野
「私の場所というのは判断的知識の由って成立する一般者という如きものであって」とありますが、「判断的知識」は図ですね。それの背後にある一般者とは「意識一般(私は考える)」つまり地です。そうした地としての「意識一般」が「具体的一般者」と考えられる、とは意識を「意識作用」と考えることです。そうした場合にそれは「主語的であり、対象的」であることになります。そうして「具体的一般者の背後に反省的一般者がなければならない」ことになります。この「反省的一般者」は前には「抽象的一般」と呼ばれていましたね。

B

なぜ「反省的一般者」と呼んだのでしょうか?
佐野
ここだけでは分かりませんね。後に「判断としては、述語面は何處までも主語面を包むものであり、客観的思惟の背後にも反省的主観がなければならない」とあり、「客観的思惟」が、先に出てきたように、対象化された意識作用(統覚)と考えれば、「反省的主観」とは「意識一般」つまり、「私は考える」という「自己意識(自覚)」だということになります。そうすると、「自己意識」のことを「反省」と呼んだと考えることができますね。実際西田はそのあとで、「どこまでも判断的知識の背後に見られねばならない述語面という如きものが、私の所謂場所であって、それはカント学者の認識主観に相当するものと云ってよい」と述べ、この「認識主観」とは「意識一般(自己意識)」のことだと考えられますから、そういうことかもしれません。ただしこの「認識主観」は新カント派のいうような作用の「統一点」ではなく、於てある場所として「包容面」だ、という注意も西田は忘れません。ここまで、いかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
「之」つまり「場所」「について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのは、〔対象化できない〕認識主観について、それが有であるとか無であるとかを論ずるのと同様である」、とあるのは先にも述べましたが、左右田博士がそうした批判をしているからです。そうして「私が無の場所というのは、〔対象化できないので〕一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と述べます。対象化された無の場所を前提として「真の無の又無がないか」という質問には答えることができない、とします。そうして「述語面」を「意識面」と考え、その「最終の述語面」が「直覚的意識面」だとします。これが「真の無の場所」ですね。「無の場所」において「直覚」が成り立つということです。対象化できないものを知る仕方が「〔知的〕直観・直覚」です。もちろん左右田博士や、あるいはカントですらこんなものは認めません。それはもはや哲学ではない、と考えるからです。ですが西田は「自己自身を見るもの」「主客合一なるもの」を認めます。桜の花(客)が自分(主)であり、そうした桜の花の内に自分自身を見る、こうしたことのうちに絶対無が自己限定して特殊となりつつ、絶対無そのものとしてそれを自らのうちに映す、という事態を見て取っているのです。最後に残ったところ、Cさん、お願いします。

C

読む(323頁)
佐野
「千金死馬を買う」については、各自ネットで調べてください。「日暮れて途遠きもの」(老齢になったにもかかわらず、哲学はまだまだだ)である自分を「死馬」に喩えたものでしょう。哲学や芸術、宗教は、天才ならいざ知らず、一般の人間にとっては、50,60ははなたれ小僧、でいいと思います。80を過ぎてから本物の哲学をする、くらいがちょうどよいのではないか、と思います。それでないと生涯続けることができない。最近は哲学も「役に立つ」ということが要求され、したがって哲学する者も専門家であることが要求されます。当然のことながら、速成が期されますから、若い人は哲学の或る狭い範囲の専門家になろうとします。年輩になると広範囲の知識の所有者になろうとします。これが昨今の哲学研究です。これが哲学の本来あるべき姿でないのは明らかですが、どうにもならない。「日暮れて途遠し」、哲学とは生涯続くものであり、本来そうしたものだと思います。次回より第4巻の最後の論文、「知るもの」に入ります。
(第97回)
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特殊を包む一般

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第6段落319頁1行目「此故に直覚的なるものが」から319頁14行目「見られるまでである」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「無論直覚的なるものが、その儘にて判断の中に入り来ると云ふのではない、場所が限定せられるかぎり、之(限定せられた場所)に映ずるのである」(319頁2~3行目)と「此の場所に於いてあるものは、全く知識の意味を失って、意識一般の対象界に於いては、唯表現として見られるまでである」(319頁 13~14行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「319頁3行目の「映ずる」は13-14行目の「表現として見られる」ことと同じか。直覚的なるものが「映ずる」のと、於いてあるものが意識一般の対象界に於いて唯表現として見られることとは、同じことを反対の側から述べていると読むのは誤りか。超越とはある境界となるところから劇的に変わるのか、それとも混ざり合うように変化していくものか」(156字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
三つ問いがありますね。第一の問いについては基本的に同じだと思います。直覚的なるものは本来「真の無の場所に於てあるもの」ですが、それが限定せられた場所に映じて「判断的知識」になることと、「意識一般の対象界に於て」「表現」となることとは本質的に同じことだと考えられるからです。ただ前者は「判断的知識」ですから「一般概念」(有の場所)に於てあると考えられるのに対し、後者の「表現」は「意識一般の対象界」つまり「対立的無の場所」に於てある、という違いはありそうです。第二の問いですが、これも本質的にはその通りで、判断的知識は限定された場所に映じたものを限定された分だけ抽象的にしか見ないのに対して、意識一般の対象界に於てあるものを「表現」と見る場合には、それを「直覚的なるもの」の「表現」として見ているわけですから、両者は同じことをお互いに反対の側から述べていることになります。第三の問いですが、超越とは、こちら側からの道がないということですから、超越が起るのはつねに突然(劇的)です。しかし超越したところから見るならばそこには道がある、ということになります。ですから「混ざり合うように変化」していくのではないと思います。ところで「表現」という語ですが、西田はこの語で何をイメージしているのでしょうか?

S

難しいですね。
佐野
たしかに「表現」、と一語出ているだけですから、何とも言えませんが、この第四巻に「表現作用」という論文がありました。そこで「直観の立場からしては、此世界は表現の世界となる」(168,5-6)とあって、まず「言語は不完全なる表現」だとされます。意味とそれを表現する質料(シニフィエとシニフィアン)の結びつきが外的だということです。これに対し「芸術」の場合は、両者が合一してはいるが、その内容は現実とは異なる「仮相(フィクション)」だという制限があります。さらに「道徳的行為」となると、それは「我々の身体を表現化することによって、全実在を表現化する過程でなければならぬ」(169,4-5)とされます。今度は「全実在」となっていますね。しかしこの過程は無限の過程になります。どこまでも実現できない、という制限があります。したがってこの立場は挫折を伴う。そうして最後に出てくるのが「宗教的立場」です。そこにおいては「全実在も亦ただ一種の表現と見られる」(同5-6)とされます。西田は宗教をそのように見ているのです。因みにヘーゲルは、宗教はどこまでも「表象(イメージ、例えば神、神の子、天国など)」を拭い去ることができない、したがって現実と和解できないと考えて、これを和解にもたらすものが哲学だと考えていました。それはともかく、西田は「表現作用」という論文では、「表現」ということで「言語」「芸術」「道徳」「宗教」を考えていることがわかります。目下の論文でももしかするとこれらを念頭に置いているかもしれませんね。

S

分かりました。それにしても西田は「直覚的なるもの」やそれが於てある「真の無の場所」を根源にしていて、そうした向こう側からの働きがなければ超越が起らないように考えているようですが、こうした根源も根源としてしまえば我々にとっての意味になってしまうように思うのですが。もっと言えば、そうした根源を据えたい、そういう根源があって欲しいという願いのようなものになっている気がするのですが。

W

そこでは、〈見る側の論理〉と〈表現する側の論理〉を区別すべきだと思います。〈見る側〉からすれば、根源は勝手な意味付けだ、というように判断され、裁かれるほかはないのですが、〈表現する側〉からすれば、何もないところから何かを生み出す行為となります。

S

そういうものかな、とは思いますが、すべての芸術家がそこを意識して狙っているとは思えませんが。
佐野
意識しているかいないかは別として、〈表現する側の論理〉でないと、芸術にはならないとは言えそうです。プロトコルはこの位にして、テキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(319頁15行目~320頁3行目)
佐野
まず「出立」点が「判断意識」であることが明言されます。動物がすることのない判断をどうして人間がするのか、これ自体とても不思議なのですが、こうした言明もすべて判断になってしまいますから、ここから出発する、ということなのでしょうね。カントや新カント派と同じやり方です。でも西田はこの「判断意識」はリッケルトのとは違う、と言います。どう違うのか。「リッケルトの判断意識というのは、先ず主客の対立を考え、知るということを作用と考える心理学的見方を基としたものである。而してその認識主観というのは、カントの認識主観から所与の原理を除去して、単に形式的に考えられたものである」と述べられます。分かりにくいですね。

A

ええ。「心理学的見方」とあるのは心理学に基づいている、ということですか?
佐野
いえ。心理学が扱うのは個人の経験的統覚です。意識された認識主観ですね。思惟、意志、想像といった統覚、つまり統一作用は意識できるんですね。ですがここではあくまで心理学「的」であって、心理学そのものではありません。経験的統覚ではない、超越論的統覚が問題になります。意識された意識ではなく、意識する意識。カントの「私は考える」です。これは図に対する地ですから、決して認識できません。カントも単に「自己意識」というのみで、これを知的に直観することはできない、とします。カントの場合、この統覚(統一作用)と地としての「意識一般」とが明確に区別されてはいませんが、リッケルトは統覚(統一作用)の方を、西田は意識一般の方を認識主観と考えるのです。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
西田のリッケルト批判はもう一つあって、カントの認識主観から「所与の原理」を除去した、というものです。第一批判(『純粋理性批判』)での「所与の原理」とは経験的なもの、感性的な質料です。これを統覚が時空といった感性の形式とカテゴリーといった悟性の形式で統一していくわけです。リッケルトも所与として「純粋経験」を一応認め、これを「所与性の範疇」によって「これ」と呼べるものにし、「実在の範疇」つまり「構成的範疇」(時空、因果)によって客観的実在(存在するもの)にする、と考えます。そうしてこれがさらに方法的範疇によって科学的な対象、さらには歴史学などの対象となります。しかしリッケルトは判断(言葉)になったところからしか問題にしませんから、「純粋経験」といってもすでに様々な範疇によって構成されてしまっている、と考えます。プロトコルの話に関連付ければ、リッケルトは〈見る側の論理〉にしか立ちません。ですから言語以前の「所与」というものを問題にしません。西田にとっては、純粋経験にしてもそうですが、言語以前の存在こそが真実在ですから、リッケルトはカントの認識主観から「所与の原理」を除去した、と批判するわけです。西田の「真の無の場所」において論じることはまさに〈表現する側の論理〉となりそうですね。

W

そうです。「真の無の場所」ということで見えてくる風景があるということだと思います。
佐野
しかし他方で「真の無の場所」という言葉によって見えなくなってしまうということもあるのでは?言葉にならないところを論じたいのだけれど、言葉になったところからしか論じられない、そんな矛盾がありそうな気がします。次を読みましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(320頁3行目~8行目)
佐野
読みにくい文章ですが、西田は「知る」ということを作用とは考えずに、「場所に於てある」と考えますから、まず「作用という如き考を除去する」ということになります。「作用という如きもの」は「既に対象化せられたものと考え」られるからです。カントで言えば認識主観を「純粋統覚」とするのではなく「意識一般」とする、ということです。カントの『純粋理性批判』では、「意識一般」は「判断意識(「私は考える」という自己意識)に関わることですが、西田はこれをさらに「意志の意識(「私は意志する」という自覚)」や「直観(真の無の場所に於てあるもの)」にまで拡大しようとします。ここまでいかがですか?

B

大丈夫です。
佐野
次に「普通に知的作用と考えられるものは、上に云った如く、意識一般の対象界と意志、直覚の世界との間に見られる心理学的対象界に於ける一つの特殊なる場合に過ぎない」とありますが、読みにくいですね。「との間」とありますが、何と何のあいだですか?

B

「意識一般の対象界」と「意志、直覚の世界」との間です。
佐野
そうですね。もう一つ質問があります。「上に云った如く」とありますが、以前に「心理学的対象界」という語が出てきたのはどこですか?

B

319頁10~11行目です。
佐野
そうですね。「合目的的世界」「心理学的対象界」「歴史的世界」「自由意志の世界」「直覚の世界」と順に出てきた、その二番目ですね。ここでは「知的作用」を心理学的に対象とするということですが、先程も申しました通り、リッケルトの認識主観は個人的な所謂心理学的な対象ではなく、超越論的(純粋)統覚です。ですからテキストでも「心理学的対象界に於ける一つの特殊な場合」となっています。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(320頁8~13行目)
佐野
「私の場所というのは、単に所謂一般概念という如きものではなくして」とありますね。「所謂一般概念」とは抽象的な一般概念のことで、特殊と対立するものです。例えば犬一般とか。そうではなくて西田の「場所」とは「特殊が於てある場所」、「対象を映して居る鏡の如きもの」だとします。前者が「場所」の存在論的テーゼ、後者が認識論的テーゼと呼べるものです。しかし「対象を映して居る鏡」だというと、鏡(一般)と対象(特殊)が「別のもの」と思われるけれども、そうではないと言います。そうして「一般が特殊を自己(一般)自身の限定として、之(特殊)を自己(一般)の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何處までも一般其者として特殊とはならない、〔一般が、〕単に特殊が之(次に出てくる無なる場所)に於てある「無の場所」考えられた時、〔一般は〕自己の中に自己を映す鏡となるのである」と述べます。

C

どういうことかイメージできませんが。
佐野
たしかに難しいですね。特殊を包む一般のことを西田は「具体的一般」と呼びます。抽象的一般は特殊と対立していますから、それ自身が特殊と対立する特殊になってしまいます。だから真の一般はこの特殊を含まなければならない。そのことによって一般も真に一般になる、そういうことがまずあります。ではそれはどのようにしてなされるか。一般が自己否定して特殊となりながら、同時に真の一般になる、これを西田は一般が自己限定して特殊となりながら、特殊がそこに於てある無の場所となることだ、と考えます。そうなった時に真の一般(具体的一般)として、一般は「自己の中に自己を映す鏡」となる、と言うのです。

C

相変わらず全然イメージできませんが。
佐野
何らかの仕方で限定された一般は真の特殊(個物)を包むことはできませんね。個物は限定しつくせないものだからです。しかしそうした一般の限定が破れる、無になる。その時に個物がそのありのままの姿を現わす。現すのは「無なる場所」に於て、ということになります。気を失っているのでもない限りそうでなければならない、そういうことだと思います。無心の境地にもこうしたことはいえると思いますし、プロトコルで問題になった〈表現する側の論理〉もこうした立場に成立するはずです。言語(判断、〈見る側の論理〉)を一歩も出ることができない人間だからこそ、そうした言語を破る経験が、驚きとか悲哀とか、あるいは身の頷きといった仕方で起こりうる。もちろんそうしたものもそうしたものとして言語化しなければ何もわからない、ということがありますが。最後に「我々が普通に用いる映すと云う語の根柢にもかかる考えが含まれて居なければならない」とあります。鏡が物を映す、ということもその「映す」ということの根柢にまで遡って考えるならば、「自己の中に自己を映す鏡」という考えが含まれている、というのです。今日はここまでとしましょう。
(第96回)
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意識一般と真の無の場所との間

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落317頁3行目「判断的知識の成立」から319頁1行目「限定せられたものである」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「我々の概念的知識が特殊化せられて行くに従って、一歩進んだ特殊は前の一般的なるものを内に包んでいく、最後に如何なる意味に於ても苟も概念的に限定し得られる一般的なるものが全然内に包まれても、尚判断の主語述語の関係から真に無の場所といふものが考へられる、即ち真に思慮分別を絶した、真に直接なる心というものが残るのである、かかる場所に於てあるものが真に直覚的なるものである、自己自身を見るものである」(318頁 8~13行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田によれば、特殊がその特殊的方向の最後に一般的なるものを内に包んでなお、「判断の主語述語の関係から真に無の場所といふものが考えられる」といわれる。「判断といふのは特殊なるものが一般なる場所に於てある」(315, 8)といわれることから、西田は特殊ではなく、最後には「判断」の立場をとっているといえる。従来の認識論の「先ず心と物とが相対立し、知るといふのは心の働き」(314, 1)という考えを「極めて素朴的」といいつつも、西田はなぜ「真に直接なる心というものが残る」と考え、判断の立場にたったのか。そして、「真に思慮分別を絶した」ところにおいて成り立つ判断とはどのようなものか」(281字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「心」という語が二回出て来ていますが、314頁1行目の「心」と318頁12行目の「心」は異なります。前者は「心の働き」とあるように、働きとしての心、です。カントの自我で言えば、素材を形式によって統一する「超越論的統覚」です。これに対し後者は「意識一般」で、図に対する地です。ここには「知る」ということをどう考えるかの根本的な違いがあります。「知る」とは素材を形式によって統一する働きのことを言うのか、場所においてあることを言うのか、という違いです。西田は「知る」の根本義を「場所に於てある」ということのうちに認めます。「一般概念」としての「場所に於てある」のは通常の「知る」ですが、そこにはすでに限定という作用が働いていますから、西田は「真の無の場所に於てある」ということを「知る」ということのもっとも根本的な意義を認めることになります。作用としての心の「知る」は、理解する・判断する、といった意味での「知る」で、「場所に於てある」の「知る」は、そうした理解が破れて、開ける、とか気づくといった意味の「知る」と言ってよいと思います。哲学の始まりとされる「驚き」も、こうした意味での「知る」です。

W

腑に落ちた感じですが、「知る」ということの根本義が「驚き」とか「開け」ということであれば、もともとあるものが通常は見えていない、ということですね。それが開けるという見方は、すでに見えているものを新しい一般概念を作って別の視点から見るという見方ではないですね。
佐野
でも、何らかの一般概念による整理をしなければ、「知る」ということにはならないのでは?真に思慮分別を絶した直接的なる心という場所において真に直覚的なるものがある、というのも、すでに十分に一般概念によって整理されていると思いますが。

Z

神とか真理についてはそういう知り方は確かになあ、と思うのですが、例えば目の前の机を机と見る、その客観性はどうなるのだろうかと。
佐野
その場合の客観性とは、一般概念の普遍性・必然性(誰にとっても通用する)という意味になりますね。西田にとっての客観性とはどこまでも「ありのまま」ということになりますが。

S

普通は一般概念に還元することを「知る」と言いますが、Zさんは常磐津で精進されていますし、Wさんはフランスで自分の一般概念では通用しないよその言語に直面されていますね。

W

出来上がった一般概念が破れることで見えてくるものがあるというのはよく分かります。
佐野
ですが、それを言葉にしなければ何も分からない、ということはあるのでは。

J

西田は思慮分別を絶する、ということが言いたかったのでは?それこそが大切だということで。西洋の二元対立的な考え方に対して、もとの姿をありのままに見るという。それを「知」と呼べるかどうかは分かりませんが。対立の前を見ましょう、ということで。

S

そんなものが、本当に大切なのでしょうか。役にも立たないものだと思います。知らなくてもよいのでは?

Z

しかし、そういう見方というのは芸道、稽古論にはたしかにあって、世阿弥の「離見の見」にはそういう所があります。「離見」は「我見」に対するもので、「我見」とは自分から見える姿、「離見」とは客席から見える姿というのが基本的な意味ですが、「我見」にはさらに、うまく見せようといった執着の心の意味も含まれると思います。ですから「離見」とはそうした「我見」を離れたあり方です。そういうありようをそのまま見る、無心に舞う姿をありのままに見る、それが「離見の見」という在り方だと思います。世阿弥はこうした「離見の見」を「見得」せよ、と言いますが、この「見得」もそうした直覚だと思います。
佐野
そうした「見得」を「得た」と言ってしまえば、またしても「我見」になりますね。

Z

それは私のことです。
佐野
(笑)。それはともかく、Zさんのご発言は、先程の、「客観性」をもった「知る」とは正反対の「知る」ということになりそうですね。プロトコルはこれ位にして、テキストの講読に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(319頁1~14行目)
佐野
「此故に」とあるのは「判断的知識」の於いてある場所が、「真の無の場所」の限定せられた場所であるが故に、という意味ですね。「直覚的なるものが判断的知識に入り来ると云うことができる」とあります。「これは机である」という判断もそれだけではない、もっと奥の深いものを含んでいて、それを実は或る意味で我々はすでに見ている、ということです。しかし「無論直覚的なるものが、その儘にて判断の中に入り来ると云うのではない、〔直覚的なるものは〕場所が限定せられる限り、之〔限定せられた場所〕に映ずるのである」と言われます。そうして「故に」と来ます。これは場所が限定せられているが故に、という意味でしょう。そうして「判断的知識はいつでも抽象的なるを免れない、真に具体的なるものは直覚的として、真の無の場所に於てあるのである」とあります。我々の通常の判断は物事をありのまま見ているのではなく、その一面を抽象的に見ているにすぎない、ということです。ですからそれを「ありのまま(具体的)」に見るためにはそうした限定が破られるという経験がなければなりません。ここまではいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
「真の認識主観というのは、かかる意識の場所という如きものでなければならない」とありますね。「真の無の場所」が「意識の場所」に言い換えられています。そうして「私は前に」と来ます。この「前に」が正確にどこかは分かりません。西田自身も記憶に基づいて書いているだけのような気がします。現在の論文の書き方からすれば不親切でしょうね。それはともかく「認識主観に種々の階段があると云ったのは、之によって明にすることができる」とありますが、「之」とは「真の無の場所」が「意識の場所」であることを指していると考えられます。ではどのような階段があるのでしょうか?次を読んで見ましょう。

A

はい。
佐野
まず①「カントの認識主観」が来ます。それが「尚限定せられた場所に過ぎない」とされます。これは「単に限定せられた場所」ということで、「対立的無の場所」、「意識一般」のことです。それが「真の無の場所に入るに従って、②意志の世界、③直覚の世界が見られるのである」とされます。③は「真の無の場所」において見られます。それで「意志の世界と直覚の世界との区別については、我々が直覚的と考えるものは、最終の無の場所たる真の無の場所に於てあるのである」と言われます。ここまでは?

A

ついていけてます。
佐野
次いで「意志は尚全然カントの意識一般の立場との関係を脱却しない」とあります。「意志」の立場で念頭に置かれているのはフィヒテの事行です。もちろんカントの意識一般は認識主観について言われるものです。その「私は考える」という地に当たるものを知的に直観することによって、それを意志によって実現(自己定立)するわけですから、ここには超越があるのですが、どちらも認識主観と対象、意志と目的といった主客の対立が支配する「対立的無の場所」であることに変わりはありません。フィヒテの意志の立場がカントの「意識一般の立場との関係を脱却しない」と言われているのはそういう意味だと思います。そうして「意識一般の立場と真の無の場所との間には、種々の階段を考えることができる、種々なる無の場所があるのである」とされます。この「間」とは?

A

意志の立場だと思います。
佐野
ですが、意志も意識一般の立場を脱却しない、ということですから、認識主観の立場と意志の立場の両方から考えた方がいいと思います。まずa「合目的的世界」が来ます。生物の世界ですね。ここにはすでに目的あるいは意志の如きものが観察されます。これをあたかもそのようなものがある「かのように」認識するのが認識主観の立場です。b「心理学的対象界」、人間の心ですね。これもあくまで科学的・認識対象的には「心・意志があるかの如くに」認識する、ということになります。さらにc「歴史的世界」が来ます。bでは主観的な心・意志が対象となりましたが、今度は客観的に現われた人間の心・意志が対象となります。こうした「認識主観」の深まりを西田は「漸次に所謂意識一般の立場を包んで」と表現しています。何が包むかと云えば「無の場所」です。一面でどこまでも「意識一般」(私は考える)という認識主観を離れませんが、それが他面からすると、意識がその中に自らの意志を直覚して行く過程と見られているのです。すなわち意志が次第に、生物的意志、主観的意志、客観的意志というように見られ、最後に「自由意志の世界に至る」とされます。道徳の世界ですね。しかしこうした「意志」も作用として見られている限り、「対立的無の場所」を脱しません。どこまでも目的は実現できない、ということになります。そこで「遂に自由意志の世界をも超越した時、全然意識一般の立場を脱却して真に直覚の世界に入る」とされます。この「脱却」には「宗教的覚悟」が不可欠となるでしょう。そうして最後に「此の場所に於てあるものは、全く知識の意味を失って」とあります。この「知識」とは「判断的知識」の意味ですが、これには意志の世界も含まれるでしょう。作用としての意志にも目的がある以上意志的な「判断」(282,1)があるからです。そこで「この場所」つまり「真の無の場所」に於てあるものは、「全く知識の意味を失って」しまいますが、しかしそれが「意識一般の対象界」、つまり「認識主観」の対象、意志の対象ですね。そこに於ては「唯〔真に直覚の世界の〕表現として見られるまでである」とされます。つまり我々が目前の机を見る場合、これを認識対象として見る場合(「これは机だ」、など)でも、意志の対象として見る場合(「机で勉強しよう」、など)でも実は「真に直覚の世界」(「真の無の場所」)に於てあるものが、「対立的無の場所」に映されてその「表現」となっている、ということです。この場所はどこまでも対立を含みますから、この表現もどこまでいっても汲み尽くされるということはありません。今日はここまでとしましょう。
(第95回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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