内在的超越/超越的内在

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第2段落311頁2行目「認識論が真に知識の成立を明にしようと思ふなら」から、同段落の最後312頁6行目「カントのカントに還って尚一応考へて見たい」までを読了しました。今回のプロトコルはSさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚的主観は何処までも内在的でなければならぬ、内在的でない自覚的主観といふ如きことは自家撞着 である」(311頁5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「「自」覚にも「ich bin ich」にも初めから「私(自)」がある。(自)覚的主観ではなぜいけないのか。自覚的主観が内在的だとあるが直覚(そのようなものがあるならば)の内にあるのはありのままの事実 で、思惟にとっては何か分からないものだけではないか。そもそも「私」は内在しないのではないか」(136字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
何か補足はありますか?

S

まず、「内在」という言葉に疑念があります。外からでないから「内在」ですよね。ですが、そう言った時、すでに外に対する内を立てていると思います。これはすでに外も内も立てている形而上学ではないでしょうか?言い方を変えれば、内と外という分別がここにはあるような気がします。

R

西田は新しい形而上学を始めようとしていたと思います。それは外ではなく、内への超越ということですが、その超越は、外に対する内ではなく、絶対無の方向への超越だと思います。
佐野
外に対する内でない、とした時にすでに分別が働いていて、その全体が内だということはありませんか?

R

西田の言う「内」とか「内在」は閉じたものではありません。むしろそのように閉じたものが破られた時に開けるものです。深みといってもいい。そうは言っても、西田にはそうした深みのようなもの、そうしたものが内にあるという確信があったと思います。
佐野
根本経験のようなもの、ですか?

R

ええ。そうした経験に基づいて、自覚的な主観、つまり直覚ですが、それが前提とされていたと思います。

W

「悟る」、と言っても(純粋に)何かを「する」と言ってもいいですが(「根本経験」という言葉はあまり使いたくないので)、とにかくそうしたものの内にあるようなもののことを西田は「内在」と言いたいわけで、これは「内」を作るような「外」を立ててはいけない、ということが言いたいのではないでしょうか。つまり、自覚するという方向を深めて行くという。

S

しかしそういう立場を立ててしまうというのが問題ではないでしょうか。とはいえ、それが絶対無の方向と言われると、内と外というような次元を超えて行くような気もします。その点では、内と外の対立が問題にならないカントの純粋自我のままで止めておけばよかったと思います。
佐野
カントの純粋自我は「自己意識(Selbstbewußtsein)」と言われますが、これを新カント派は論理的になければならないものとして考えます。自我自体の直観ができない、というカントの説を踏まえてのことです。これに対してフィヒテは、自我の知的直観はなければならない、との立場から、この「自己意識」を自己の直観に基礎づけます。その場合は西田の言う「自覚」の意味に近くなります。しかしどちらの場合も、自我(ich)と呼ばれるものは、デカルトの「我」もそうですが、誰でもなく誰でもあるような我です。そこには例えば佐野之人、というような個人はいません。その意味では本日のプロトコルの言うように、そこには「私」は内在していません。ではそこで言われているような「私」はどのようにして生ずるのでしょうか?

R

西田の自覚には地と図における、地がその、誰でもなく誰でもあるような私に相当し、所謂「私」は図として、自覚のうちに含まれていると思います。

S

そうした自覚を自覚として語る個人がいるわけで、そうした個人が消えたわけでわけではないと思います。
佐野
そのように語る者は「個人」ですか?むしろ誰でもなく誰でもあるような自我では?ここで問題にしたいのは、そのような「誰でもなく誰でもある」ような「自我」ではなく、他ならぬこの佐野之人というような、「他ならぬ自己」がどのようにして生ずるか、ということです。

R

西田において「自己」には二つに区別されていると思います。一つは「意識的自己」。これはいわば揺れやすい自己で、偽我でありながら、自分を真の自己と思い込んでいる自己です。もう一つは「他ならぬ自己」。これは揺れない自己で、真の自己と言えるものです。
佐野
二つの自己の関係がよく分かりませんが。

K

「真の自己」はあると思いますが、どう説明するかが分かりません。動物は外にしか視線が向いていませんが、人間だけが、鏡を見るように自分を内に見る視線というものを持っています。そうなると、その中心の核となるものを証明しなくてはならなくなる。それが難しい。

S

大方の偽我は関係で把握しています。
佐野
例えば、教師であるとか、学生であるとか、という役割で自分を押さえているということですね。

S

そうです。ですが、そうした関係なしに自分を認識することができるのか、それが疑問です。

K

私は今、音楽を作っていますが、百作ったとしてそのうちの九十九は他からの影響の中で作ったもので、つまらないものです。ですが、まれに自分がないという所、作っているということも忘れた所、勝手にできる、内から降ってくるという感じ、これもあとからの説明でしかないのですが、そこに「真の自己」というようなものを感じます。

S

でもそうした状態から「我」に帰るでしょう?
佐野
そうですが、そうした「我」はKさんにとっては「真の自己」ではないのでしょう。

W

「作る」自分がある、後はアイデンティティで押さえる。「ただ」作る、という次元が人間にはあると思います。

S

その場合でも「真の自己」が肯定的に捉えられていますね。しかし「真の自己」というのは直視できないようなものかもしれない。
佐野
どうやら、自己に「誰でもなく誰でもあるような自己」と、「真の自己」と日常的な「偽我」の三つがあるようで、このうち、「真の自己」は知的直観を認める側からすれば、肯定的に捉えられるけれど、そうしたものを持ちえないとする立場、思惟の立場からはどこまでも分からないもので、かえって恐ろしいものだという考えがありそうですね。プロトコルはこの位にして、テキストに入りましょう。それではAさん、お願いします。

A

読む(312頁7行目~13行目)。

A

「広義に於ける直覚」とありますが、具体的には何ですか?
佐野
狭義における直覚という場合は?

A

知覚的な直覚だと思います。
佐野
そうですね。カントはそう考えた。しかし西田はそれに加えて、「意志的直覚」というものを考えている。305頁11行目をご覧ください。「意志的意識の所与は知覚によって与えられるものではない」とありますね。注意しなければならないのは、西田が、この直覚とか所与と言っているものは、言葉以前だということです。言葉以前のものが直覚として与えられている、というのが西田の根本にあります。カントの知覚は所与と言っても、すでに時空によって形式づけられています。この点を西田はあまり重視していません。新カント派にとって所与はすでに、所与のカテゴリーによって整理されており、それがさらに時空と因果によって整理され、これが判断にとって与えられたものとなります。こうした実在を様々な立場から判断する、ということになります。すべては言葉になったところから論じ、言葉以前というものを問題にしません。ところでテキストでは「真の知識は形式と内容との統一にある」と言っていますね。この形式と内容とは、前の文では何に相当すると思いますか?

A

形式が「思惟」で、内容が「広義に於ける直覚」です。
佐野
そうですね。そうして両者を統一する「真の認識主観」は「リッケルトの云う如き単なる形式的主観ではなく」とありますね。リッケルトはカントの「純粋統覚(自己意識)」を、内容的には(言語的に)すべて与えられているところに成立する主観と考えた、ということが西田の念頭にあるのでしょう。しかし西田はそうは考えません。言葉にならない知覚的・意志的直観に形式(言葉)を与えるのは「自覚的主観」であるとします。ここには言葉にならないものを直覚できるという前提があります。ここは大変に難しいところです。「言葉にならないもの」というのは一方で、文字通り「言葉」の否定ですが、それが同時にすでに「言葉」だからです。言葉にならないものを論じることができるとする立場、論じることはできないとする立場、これらの立場をいずれの一方に定めることも独断の誹りを受けることになるでしょう。西田は言葉にならないものの直覚を、自覚のうちに積極的に認めます。「自覚的主観」における、図に対する地として、すでに与えられ、かつ統一されているではないか、というわけです。我々は確かに判断以前、言葉以前に物事をありのままに見ている、そのように信じていますが、本当にそうか、本当に難しいところです。ともかく、西田はそのように考えた。そうしてカントも「知覚と思惟との統一」を「自覚」に求めたと主張し、フィヒテは「更に此点を深めて事行の考に到達した」と積極的に評価します。ここまで、いかがでしょうか。

A

はい。大丈夫です。
佐野
ついで今、「独逸唯心論(ドイツ観念論)の批評に入り込む暇はない」とした上で、「何處までもカントの認識論的立場を維持して形而上学に陥るを避けるためには、認識主観の意義を失わないことを務めねばならぬ」とされます。自分こそがカントの認識論的立場を維持しているが、その後のドイツ観念論は形而上学に陥る傾向があった、と言いたいわけです。そうして「自覚の背後に存在的自己を考える」のはもちろんのこと、自覚(認識主観)を「純なる作用」と考えるのも、「認識主観の意義を失う恐れ」があると言い、これを成したのがフィヒテであり、その後のドイツ観念論だというわけです。

A

「純なる作用」が何故形而上学につながるのですか?
佐野
先を読んで見ましょう。Bさん、お願いします。

B

読む(312頁14行目~313頁5行目)
佐野
「フィヒテの働くことが知ることである」の「働くこと」が先の「純なる作用」ですね。そのことを確認したうえで、それが一方で「無論内在的自覚の深い意義を云い顕したもの」として評価しつつ、他方で「客観界の構成主観としてのカントの認識主観の意義を徹底した結果、その主観的判断主観の意義を失う」傾向を生じたのではないか、と疑問を呈します。

B

よく分かりませんが。
佐野
「認識主観」を「客観界」の「構成主観」とすることで、「認識主観」自体が客観化・実体化され、「客観的思惟」、「客観的精神」となった、と読めますね。もちろん西田の批評ですが。フィヒテの「我」はそうした「客観的思惟」に「反省的思惟」(「主観的思惟」)の「契機」を含ませてはいるものの、やはり「客観的精神」として「形而上学的傾向を帯び来る嫌を生ずるを免れない」とされます。「嫌」とは「よくない傾向」のことです。

B

何とか、理解できました。
佐野
西田は続けて「意識の背後には何物をも考えられない、何物かの上に立つならば意識でない、意識は何處までも直接でなければならぬ。何等かの意味において対象化せられたものは意識ではない、心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」と畳みかけます。フィヒテがそれをやった、という批判ですね。次をCさん、お願いします。

C

読む(313頁5行目~14行目)
佐野
「事即行」とありますね。これが出てきたら、例の英国にいて、英国の完全なる地図を描く、というのを想い起すとよいと思います。完全なる地図ですから描いている自分も描かなければならない。描き終えた時には描き終えた自分を書かなければならない、というわけでどこまでも描き続けることになる。その際、描くことが出来るのは、描くべきものが見えているから描ける、と考えられます。見えている、これが直観。これを反省することが地図を描くことで、両者が「自覚」のうちに成り立っています。事行で言えば、描かれた地図が「事」、見つつ描く行為が「行」です。今日は初めての方もいらっしゃいますので丁寧に説明して見ました。

K

ありがとうございます。
佐野
次に行きますね。「事即行にして無限の過程と考えられるフィヒテの事行は」、ここまではよろしいですね。「客観的思惟としての自覚の構成作用を言い表すに十分であろう」。「客観的思惟」がまた出て来ました。「対象化」・実体化された「自覚」です。そうして「而してそれ」、「フィヒテの事行」ですね。「それが自覚的なるが故に反省作用という如きものを含むことができる」、ここもよろしいですね。「自覚」は直観と「反省作用」を含みます。「併し」と来て、それは「真に直接なる反省的意識其者を含むということはできぬ」と言われます。「真に直接なる反省的意識其者」が西田の立場です。対象化されていない反省です。フィヒテの場合はこの反省が作用として、それ自体が対象化されている、と言いたいのです。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次に行きます。「純論理的ではなるが」とありますが、これはフィヒテだけでなく、新カント派も念頭に置いているのでしょう。「動的なる過程」、先に出てきた「無限の過程」ですね。こういうものが「考えられる時、すでに対象化せられたと云うことができる」、ということになるわけです。

W

「考えられた」というところが大事ですね。西田は「考える」というところにどこまでも止まろう、と。
佐野
そうですね。そうした立場だと思いますが、哲学としてそれをどう語るか、が問題になりますね。外から対象化してそれに「ついて」語る、というのではだめでしょう。みずからが体験した、あるいは体験している事柄を、言葉にせよ、という内面からの促しに応答しつつ、言葉にしてはそれを吟味して行く、こんな営みにならざるを得ない気がします。次に参ります。「此故にかかる立場」、フィヒテや場合によっては新カント派の立場ですね。こういう「立場から厳密に論ずるならば、真の意志の自由という如きものは出て来ない」とありますが、何故そうなるかは書いてありませんね。

C

「意志の自由」とは「内面的性質」に従うことだからではないでしょか。
佐野
なるほど。そんな感じがしますね。そうして次に「我々に真に直接なる反省的意識は、かかる意味に於ける作用的なるものをも越えて、無限に深い奥に還らねばならない」とあります。ここでまた「作用」が出て来ます。フィヒテや新カント派の「思惟」が対象化された「作用」だということが、ここでの文脈ですが、ここではさらにそれを超えて、「作用」として意識されるもの一般、反省作用も意志作用も、それが作用として意識され、対象化されたものである限り、「無限に深い奥に還らねばならない」、そのように言っていると思います。以前、意志に「作用としての意志」と「状態としての意志」が区別されましたが、そのことにも関わるでしょう。ここまではいかがですか?

C

大丈夫です。
佐野
次いで「無論フィヒテは既に事行の立場を越えて、シェルリングに近い知的直観の立場に進んだと云うことができるであろう」と、ちょっと持ち上げておいて、「併しシェルリングの知的直観であっても主客合一と考えられるかぎり、尚対象的意義を脱し得たということはできない」と批判されます。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルが、「ドイツ観念論(独逸唯心論)」の代表的な思想家ですが、まずフィヒテが「自我」の哲学を構想し、次いでシェリングがそれに対置される「自然哲学」、さらには自我と自然の同一(「主客合一」)としての「絶対者」の哲学を構想する。そうしてこの「同一」としての絶対者をさらに、「同一と非同一との同一」として、つまり動的(弁証法的)なものとして考えようとしたのがヘーゲルです。このうちフィヒテとシェリングは「知的直観」を認めましたが、ヘーゲルはそのように絶対者を一挙に捉える知的直観は認めません。あくまで知(Wissen)は弁証法的な運動を通して形成される学的体系(Wissenschaft)でなければならないと考えます。ところが西田はこれらの思想家の考えようとしたものが、すべて「対象的意義」を脱していない、つまり実体化されてしまっている、と批判するのです。

W

ここでも「考えられるかぎり」と出て来ますね。
佐野
そうです。ドイツ観念論の思想家たちが考えようとしたものはすでに「考えられたもの」にすぎない、ということです。これはもちろん西田の解釈であり、彼らの思想自体がどうであったかは別の問題です。今日のプロトコルでも話題になりましたが、西田は形而上学の外的超越に対して自らの新しい形而上学の立場である内在的超越、つまり対象化できないものへ、彼方ではなく此方への超越を主張します。最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』においても、「内在即超越、超越即内在の絶対矛盾的自己同一の立場に於て、宗教と云うものがある」(Ⅺ,459,8-10)と言いながら、結局は「内在的超越」と「超越的内在」とを並べておいて、「私は将来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考える」(Ⅺ,463,1-2)と言ってしまいます。ここではキリスト教(超越的内在)と仏教(内在的超越)の対比が念頭に置かれていますが、ちょっと考えただけでも、アンバランスは明らかで、超越的内在即内在的超越が真の宗教となるはずがそうなっていない。このまましゃべってもいいですか?

C

お願いします。
佐野
そもそも『善の研究』において、「宗教的覚悟」としての「純粋経験」が成立したのも、神の自己否定(「神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ」(岩波文庫改版254,2-3))、つまり「超越的内在」の契機が不可欠であったにもかかわらず、そうした「純粋経験」の立場が「根本的な立場」となることによって、「超越的内在」の契機をすっかり忘れてしまい、直接にそうした立場、直観の立場に立とうとする、あるいは立ち得た、と考えるようになっているように思います。これは新カント派との出会いによって、それに対して自らの立場を主張せざるを得なくなった、という外的な事情も大きく関わっているでしょう。その後の「自覚」の立場にしても「場所」の立場にしても、どれも対象化(言語化)されない次元の事柄を考えようとしていますが、そこに絶対的他者としての絶対者は出て来ません。つまり「内在的超越」はあっても、「超越的内在」の契機が出て来ません。こうした事態は「場所」が「弁証法的世界」となって具体化されても変わりません。ようやく最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』になって「逆対応」ということが言われて、絶対者の自己否定(神のケノシス)が出て来ます。『善の研究』で垣間見られたものが長いブランクを経て、ようやく日の目を見た、というような感じがします。それにもかかわらず、「超越的内在」と「内在的超越」を並べて、「内在的超越」を選んでしまう。ここには『善の研究』以後に起こったこと、つまり神の自己否定を契機にして成立した「純粋経験」が、その契機を忘れて、すべてを「純粋経験」に回収し、そうして直接に「そこ」に立とうとしたこと、このことが、最晩年の西田においても「逆対応」を忘れて、すべてを「平常底」に回収してそこに直接立とうとする、ということが繰り返し起ころうとしているような気がするのですが。どうでしょうか?
(第91回)
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カントの純粋自我、フィヒテの事行

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第1段落309頁14行目「以上の考は「自覺に於ける直觀と反省」以来」から第2段落311頁2行目「知的自覺によつて可能なるのである。」までを読了しました。今回のプロトコルはJさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは①「自覺に於ては、考へるものと考へられるものとが無條件に一である」(310頁3行)と②「統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ich であるのである」(310頁10行)でした。そうして「考えたことないし問い」は「キーセンテンスとして挙げた➁は、①を言い換えたと解していますが、その理解でいいのか。20024年12月7日付の「読書会だより」の中で、西田はリッケルトの「私は思う(Ich denke)」を批判していると読みましたが、「私は私である(Ich bin ich)」との違いをどのように捉えたらいいのか (表現より、その意図することの相違なのかも知れませんが)」(151字)でした。例によって記憶に基づいて構成してあります。
佐野
「Ich bin ich」が「考えるものと考えられたものとの無条件に一」としての「自覚」の言い換え、というのはその通りだと思います。これと西田が理解した限りにおけるリッケルトの「Ich denke」との違い、ということですか?

J

ええ。そうなんですが、それより以前にデカルトの「私は考える、それ故に私はある」というのと、フィヒテの「Ich bin ich」が同じような感じがするんですが、そこのところがはっきりしません。
佐野
分かりました。まずデカルトですが、彼は「私は考える、それ故に私はある」としましたが、これは「私」は「考えている」のだから、その主体としての「私」はある、という意味ではありません。どのようなものを考えても、それを図とするならば、そうした図に対する地が「私は考える」という仕方で存在する、という意味です。この「私は考える」としての「私」の存在は、地として決して対象化できませんから、経験できるような実在ではありません。ですからもしこの「私」の存在を主張するとなれば、それは経験的な実在としてではなく、経験を越えたという意味で「超越論的」な「実在」ないし「実体」として主張することになります。ここまで、分からないところはありますか?

J

大丈夫です。
佐野
カントはこうしたデカルトの議論を、誤謬推理として退けます。詳しくは申し上げられませんが、要するに、対象化できないものを対象化・実体化したということです。西田のリッケルト批判はこれに関係します。リッケルトはカントの「Ich denke」を「自己意識」としてではなく、論理的になければならない認識主観と考えますが、リッケルトはこの「抽象的思惟の主観」を経験的心理学ではない、「先験的(超越論的)心理学的反省」によって「実体」化した、そう西田は批判しているのです。このまま続けてもいいですか?

J

お願いします。
佐野
カントの「超越論的統覚」(「Ich denke」)は「自己意識」ですが、同時にカントは自我自体の知的直観を認めません。ところが、フィヒテはこの自我自体の知的直観を認めます。こうなると、デカルトの「私は考える、それ故に私は有る」が別の仕方で復活します。フィヒテは「Ich denke」を働きと捉え、これが知的に直観される、とします。そうするとその直観によって、その働きは「ある」とされますが、その時すでにその「ある」とされた働きを考える働きが成立しています。これも例の〈英国にいて完全なる英国の地図を描く〉という喩えを想い起すとよいと思います。このように「ある」ということと「行為」が同時に成り立つのが「事行(Tathandlung)」であり、「自覚」です。ここにおいては「考えるものと考えられるもの」、これは「意識する意識と意識された意識」と言ってもよいですが、それが「無条件に一」となります。そうして「その統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ichである」ということになります。

J

これでだいぶ頭の中が整理できました。
佐野
しかし「私は私である」というのがたんなる同語反復でない限り(同語反復A=Aの場合は、このAを外から見る視点が想定されますが、「私は私である」の場合にはそうした視点が成立しません)、そんなに簡単に言えるのか、という問題があると思います。これはアイデンティティの問題で、そんなに簡単に言えるのなら、誰も苦しみはしないだろうと思います。人間は誰しもこの「私」ということで苦悩するのですから。そもそも「私は私である」ということをことさらに言わなければならないのは、「私が私でない」という在り方に晒されているという状況です。そこでここでは「私は私である」ということが「人間」において成り立っているか、そこを考えてみたいと思います。

S

「私」というのはどうも腑に落ちない気がしています。ないような気がしたまま今まで来たという感じです。他者との違いとして意識されますが、なんだかわからないものです。だから主体性と言われても困ります。『善の研究』でよく「統一力」というのが出て来ましたが、たしかに「私」において「統一性」は感じますが、硬い塊、というような感じではない。Fさんは、いまフランスにいらっしゃいますが、そうした「コア」な自分というものを感じますか?私はいつも自分のことを「余(あまり)」と感じていて、地と言うのでなく、確固たる自分がいるとは思えないんですが。

F

私は「私が思う」とか「私がある」というのがどう成立したかに関心があります。

R

やっぱり「人間」は安心感が欲しいのではないかと思います。「私はこれこれである」、と言いたい。でもそれは根本に「不安」があるからだと思います。

S

野山にいるときには「自分が誰」とは思いませんよ。

R

自然からその外に出ると自分を意識するのでは?

S

たしかに野山にいるときには、鳥を見ていても、「自分が」見ているとは思いませんね。でも現実社会に出てくると、「自分」がなければならない、というように思っていますね。そこには内発性はなく、外から追い詰められている感じしかない。

F

意識された「私」に、なにか確固とした固定点があるとは思えません。例えば「私は真面目である」にしても、いくらでも揺らぎます。

S

もしFさんが世界征服を成し遂げたとして、私=宇宙、となってすべてが意のままになった場合(朕は宇宙なり!)には、(そうした揺らぐような固定点ではない「私」を獲得できたのだから)、「Ich bin ich」と言えるのでは?
佐野
むしろそれが本当に成就したらもはや「Ich bin ich」と言う必要もなくなりそうですね。フィヒテの「Ich bin ich」(自我の根本的な自己定立:第一根本命題)も、「非我(das Nicht-ich)」からの「衝撃(Anstoß)」によって制約されることが第二根本命題によって明らかにされます。そこから「Ich bin ich」は「当為(Sollen)」となって(「Ich soll ich sein」)、自己であるべし、の「無限の努力」になって行きます。ヘーゲルはこうした否定的な無限進行の只中に成立している肯定的なものに目覚める、それが「思弁」だ、そのように考えます。ヘーゲルの場合、自我がどこまでも自立、さらには自立のための承認を求めて行って、それがどこまでも成就されず、最終的に「罪とその赦し」という仕方で、「宗教」において神との和解が成立することになります。もちろんこれは「めでたしめでたし」ということではなく、その「赦し」はつねに「罪の自覚」と一体です。そういう仕方で自我は神と和解を得て、「精神」となるのですが、そうした和解をキリスト教の物語のような「表象」ではなく、真に概念把握するのが「哲学」だ、ということになります。ここでも「私」はどこまでも「私」を求めざるを得ないのですが、それが徹底的に崩れることによって、そのことの只中で、神との和解、ひいては自分が自分である、ということが成立する、そのように考えられているようです。プロトコルはこの位にしてテキストに入りましょう、と言いたいところですが、前回の予告の通り、まずはフィヒテについて西田が講演したものがありますので、それを見て置きましょう(旧全集第14巻91頁10行目~95頁3行目)。Aさん、お願いします。

A

読む(91頁10行目~92頁4行目)
佐野
ここでは「事行」と「自覚」について述べられていますね。

A

「働き」と「はたらき」は別のことですか?
佐野
微妙な感じがしますが、区別はないと考えた方がよいと思います。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(92頁5行目~9行目)
佐野
ここでは「自覚」において、「知る」「考える」という「はたらき」と「在る」ということが一つであることが述べられています。「在る」と言う時にはそこにすでに「知る」働きがあるからです。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(92頁10行目~16行目)
佐野
「事行」や「自覚」というのはフィヒテ哲学のもっとも大切な箇所で、「むづかしい」けれども、「これ程はっきりした事実もない」と言われます。そこで自分は自分である、ということが成り立つわけですが、どうでしょうね。難しいところです。次をDさん、お願いします。

D

読む(93頁1行目~6行目)
佐野
フィヒテの「自覚」とデカルトの「我考うるが故に我在り」が同じことを言っていること、その根本に作用(我考うる、の働き)の「知的直観」があることが述べられています。この「知的直観」をカントは認めません。次をEさん、お願いします。

E

読む(93頁7行目~13行目)
佐野
カントの純粋自我の「純粋統覚」つまり「Ich denke」はあらゆる表象に「伴う」とされますが、西田はこのカントの自我がフィヒテの事行にならなければならない、とします。これは、カントは認めないでしょう。次をFさん、お願いします。

F

読む(93頁14行目~94頁1行目)
佐野
ここでは「物自体」がフィヒテの「事行」にほかならないことが述べられます。続いてGさん、お願いします。

G

読む(94頁2行目~6行目)
佐野
ここではカントの「物自体」が「知るもの」と「知られるもの」が別物だという考えを除き去ることができなかったところから生じるとし、「事行」において「知るものと知られるものは円環をなしている」とされます。次をHさん、お願いします。

H

読む(94頁7行目~10行目)
佐野
ここで西田は「物自体」をカントの「純粋自我」さらにフィヒテの「事行」とすることに「少からぬ議論のあること」を一応認めつつ、「兎に角」と来て、「我々の世界のすべてはこの自己同一の考えから何時でも出発して考えられねばならぬ。此の自己同一の我は何人も疑うことの出来ない明白な事実である。これを疑うことは我を否定することである」と力強い口調で述べています。ここには西田の強い信が感じられますが、それだけに同時に根本的な問題もそこにあるはずです。次をIさん、お願いします。

I

読む(94頁11行目~95頁3行目)
佐野
いきなり「物自体をかく考えることによって、カント哲学は矛盾なしに総ての問題を説明することが出来る」と豪語していますね。「自覚の上から見ればよい」とも。そうして具体例が述べられます。「松の木が立っている」のも「私が私であるから」と言います。

I

独我論的な感じがしますが。
佐野
これだけ読むとね。しかしここで言われている「自我」は「物自体」と一つになった、絶対的な自我です。自然界も精神界もこの上に立つような「自我」です。そうして「カントでは単に価値(真善美:引用者)の根柢であった静的な事実」―これは自然界精神界の根柢にある「Ich denke」という自覚のことを言っているのでしょう―が、フィヒテになって来ると実在の根柢となり、動的発展的な事行となった」とされています。そうしてこのフィヒテの考えがヘーゲルに受けつがれて、「世界は理性である、理性の自覚が世界である」とされた、そのように述べられます。ただ、ヘーゲルの場合、自覚の一々が否定され、最後に至っても、徹底的な否定が同時に肯定である、というように考えますので、単純な自覚ではありません。参照はここまでにして、本来のテキストに戻りましょう。ではAさん、お願いします。

A

読む(旧全集第4巻311頁2行目~312頁6行目)
佐野
ここでは「認識論」は「自覚」の問題に入って行かなければならないこと、それはどこまでも「内在的」であって、「我々の経験界を構成する範疇を、知覚的所与なくして超経験界に押し進める」という意味での「形而上学的」では決してないこと、そうしてフィヒテもフィヒテ以後の所謂ドイツ観念論もそういう意味での「形而上学」ではなく、西田自身もそうした「形而上学」に陥ったことは一度もないことが述べられています。そうして「カントに還れ!」は新カント派の標語ですが、このように自覚の問題を深く考えていくことこそ、リッケルトのカントではなく、カントのカントに還ることだ、そのように言います。

A

これ、左右田博士も読んでいるんですよね。
佐野
ですね。さぞむっと来たでしょうね。

B

カントも怒ると思います。
佐野
今日はここまでとします。
(第90回)
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私は私である

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第5段落307頁12行目「所与の原理は異なるも」から第5段落309頁終わりまでを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られるのであるが、之を越ゆれば、全然所謂知識の領域を脱して、直観の世界に入る、而してそこに真の自覚が現れるのである」(309, 8-10)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、自覚とは「無限の深底」であり、「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」という。西田によれば、「真の自覚」は、「対象界」(所謂知識の領域)を越えた所の、「直観の世界」に現れる。こうして「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか。西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか」(210字)でした。読書会時にはほとんど質問内容の質疑に終わってしまったので、改めてWさんに問いたかったこと、考えたことを述べていただきました。読みやすいように、対話形式に編集してあります。
佐野
もうすこし説明していただけませんか?

W

まず、プロトコルの一つ目の問い(「真の自覚が現れる」といわれるとき、そこでの経験内容とその変化はどのように説明できるだろうか)によって、問題にしたかったのは、「真の自覚が現れる」というときに、真の自覚に現れているのは何か、ということです。
佐野
「真の自覚に現れているもの」そのもののことですね。続けてください。

W

この問題において、たとえば、「花を見る」というときに「真の自覚が現れる」と言い得るのはどういうときだろう、と問いを立てることができるならば、我々の自覚は「無限な深底」であるといわれているにも関わらず、「真の自覚」について考えようとするときには、意識の次元で理想化された経験内容を出発点としてしまうように思います。
佐野
「真の自覚に現れているもの」について「言う」とか「考える」という次元のお話ですね。そこに「意識の次元」での「理想化」があると。どうぞ、続けてください。

W

このように、ある経験内容を理想化しているようにみえてしまうことから、二つ目の問い(西田が「真の自覚が現れる」と言うことができるのは、ある経験内容を前提とし、経験内容を変わらないままに考えているからではないだろうか)を立てました。
佐野
なるほど。ようやく少し見えてきました。それで?

W

「真の自覚が現れる」というときには、「真の自覚」として現れるに相応しい(それ以上見え方の変わらない)経験内容が前提とされているようにみえます。
佐野
よくわかりました。哲学や宗教、あるいは芸術にとって重大な問いのようですね。これらのものにあっては感動、驚き、出会いといったものが決定的な始まりになります。これなしには成り立たないと言ってよいと思います。しかしそうした根本経験を「ある!」と言ってしまえば、そこにすでに、「意識の次元」での「理想化」が起っている、そういうご発言ですね。しかし哲学や宗教、あるいは芸術の立場からは、たしかに自分の体験を確かなものとして掴むことはできない、しかしそれだからこそそうした「理想化」(自分が掴んだと思っている体験)をも破る働きがますます「ある!」、と言えるのではないか、そのように言うでしょう。この点どうお考えですか?

W

体験の中には「理想化」をも破る働きがどこまでも「ある!」ということは言えるように思います。
佐野
なるほど。「ある」とは言える。それで?

W

問題にしたいのは、そうした働きが生じるときに、「真の自覚に現れているもの」は、異なる様に移り変わっているのか、それとも、それ自体として同じ様に留まっているのか、ということです。
佐野
難しいですね。「働きが生じるとき」が「真の自覚が現れるとき」ですよね。そのときに「〔すでに〕異なる様に移り変わっている」のか「それ自体として同じ様にとどまっているのか」ということですね。「ある」とは言えるけれど、その「ある」ものが変化・変質しているということですか?もう少し説明してください。

W

はい。こう問うてみます。その応答が前者であれ後者であれ、これまでの経験からつくられた前提を破るような体験が起こるということは、「真の自覚」から考えるとどのように説明できるのでしょうか。
佐野
「真の自覚」から体験を考えるということですか?

W

はい。「自覚の意識其者をも失う所に、真の自覚がある」と言うことができるならば、「意識の次元」と対立させることなく「真の自覚が現れる」ということを考えなければならないように感じますが、そのことをどのように説明することができるのか疑問に思っています。
佐野
「意識」の立場に立つことなく、「真の自覚」の立場から体験を語ることは可能か、という問題ですね。まさしく宗教、哲学、芸術の根本の問いだと思います。しかし「語る」というところを「説明」とすると、不可能な気がします。何故なら「説明」はつねに「何かについての説明」だからです。ここにはすでに「真の自覚」とそれを語る者が区別されています。そうして「説明」はつねに説き明かすこととして、分別的で無矛盾でなければなりせん。これがまさしく「意識の次元」でしょう。しかし不思議なことに、「決して説明できない」、「意識の次元」を出ることができない、という言明自体が、その「外」、つまり「真の自覚」の領域を認めなければ成り立ちません。意味を成し得ないのです。つまり「説明できない」ということを通じての「説明」がなされている、ということです。さらに考えたいところですが、プロトコルはこれ位にして、本日の講読箇所に移りましょう。ここも私の頭の状態がよろしくなかったので、大変申し訳ありませんが、架空対話の形で書かせてください。それでは始めます。Aさん、読んでください。

A

読む(309頁最終行~310頁8頁)
佐野
「以上の考」とあるのは?

A

「自覚」の考えだと思います。
佐野
そうですね。知的自覚(カントの純粋統覚「ich denke」)から意志的自覚(フィヒテの事行)、そこから「真の自覚」(直覚)に至る流れのことですね。そのことがもう一度繰り返されて説明されます。ここでも「カントの純粋統覚」を「形式」と「内容」の統一として捉え、そこに知識の「客観性」(繰り返しになりますがこれは西田独自の解釈になります。カントによる「客観性」はあくまで「普遍性」と「必然性」を徴表とするものです)が成り立つ、と考えます。あらゆる認識に伴わなければならない、「自己意識(Selbstbewußtsein)」、としかカントが言わなかった「私は考える」、これをどう捉えるか?これを自己が自己を知る、というような意味での「自覚」とはせずに、単に「論理的」になければならないもの(「論理的主観」)と考えるのが、リッケルトです。これに対し単に知的直観によって捉えられると主張して「直覚的主観」としてしまえば、自我を形而上学的に実体化することになります。ではどうするのか。「自覚」しかない、そのように西田は考えます。そうしてカントの「自己意識」を「自覚」(訳語の問題で、原語は同じですが)にまで深めた(リッケルトの立場からすれば理論理性の越権行為を敢えてなした)のがフィヒテの「事行」だ、そのように西田は考えます。そうして「自覚に於ては、考えるものと考えられるものとが無条件に一である」と言われます。

A

「考えるもの」と「考えられるもの」とはどこまでも異なるのではないでしょうか?
佐野
一面においてはそうですが、他面においてそうでない、というのが自覚だ、というのがフィヒテの立場です。まず「自我」があって、それが「考える」ということで、「私は考える」という自覚が成立するということになれば、これは「もし自我があれば」という条件によって制約されたものとなります。「無条件に一」というのは、考える働きと考えられるもの(働きの産物)とが、そうした条件なしに一つだということです。次に「フィヒテが『全知識学の基礎』(原文ドイツ語、1794年)の始に於て「第一の、端的に無条件の根本命題(原則)」(原文ドイツ語)として「事行」を考えたのは、カント哲学の深い見方と云わざるをえない」とありますね。

A

はい。
佐野
『全知識学の基礎』における「第一の根本命題」とは「自我は根源的に端的に自我自身を定立する」ということで、「自我」とは「事実」ではなく、「意志」による自己定立の働きによってはじめて存在するものであり、そうした定立ができるためには自我自身の「知的直観」がなければならない、とするものです。ちょうど英国の完全なる地図のように。ですから一面ではAさんが仰る通り、働きとその産物はどこまでも区別されながら、その働きが自己定立の働きであることによって、根源的には同一だということになります。だから働きと産物の区別は「同一」であるべしと無限に同一を求めていくことになります。フィヒテについては次回、これも旧全集の14巻によって少し見て置きましょう。

A

お願いします。
佐野
カントの「純粋統覚」、つまり「私は考える(自己意識)」をフィヒテ的な意味での「自覚」つまり「事行」と考えたのは「カント哲学の深い見方と云わざるを得ない」と西田は言いますが、左右田やリッケルトからすれば、それはカントの理論理性の限界を越える、許されない越権と映るはずです。しかしフィヒテや西田にとっては、こうした「事行」としての「自我」は意識されたものとしての「意識には現れない、又現れることもできない」が、(ただし知的には直観できることによって、)「すべての意識の基礎」となる、「認識も之によって基礎付けられねばならない」ということになります。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(310頁9行目~311頁2行目)
佐野
冒頭「知的自覚」とありますね。これは「判断的自覚」とも呼ばれていたものですが、カントの純粋統覚、「私は考える」(自己意識)のことです。カントの場合、それは思惟(悟性)と直覚(感性的直観)とを総合するもの、「所謂知識の形式と内容」とを統一するものでした。こうした統一の「純なる形式的言表」がフィヒテによれば「私は私である(Ich bin Ich)」だと言うのです。この「Ich bin Ich」が先に申し上げた「知識学」の「第一根本命題」、すなわち自我の根本的自己定立にほかなりません。「ペンがある」という知識も私の表象(考えられたもの)として、その形式だけ取り出せば、「私=私」となります。ここまではどうですか?

B

大丈夫です。
佐野
次に「それ」つまり「私は私である」という「知的自覚」は「心理学的でもなければ、形而上学的でもない、認識論が之によって基礎付けられる」とあります。自己の内面を心理学的に観察したのでもなければ、独断的に自我の同一性を述べたものでもない、認識論の基礎づけになるものだ、そのように述べます。「心理学的自覚」についてさらに説明が続きますね。「所謂心理学的自覚というのは、かかる意味に於ける自覚」、これは「Ich denke」としての「知的自覚」のことですね、そうした「自覚の内容的に限定せられたもの」であると。「内容的」とはこの場合、自己の内面を対象として観察した内容、ということです。我々は自分のことをああだこうだ、というように自覚する経験を持ちますが、そうした自覚経験がこの場合の「内容」ということです。それは「恰も思惟は単に心理的ではないが、限定せられた判断作用として心理的と考えられるのと同様」だ、と言います。どういうことでしょうか?

B

実際にいろいろな判断をしている、ということを反省して知る、ということではないでしょうか。
佐野
そういうことだと思います。次に「或意識の範囲内に於て思惟と内容との統一が見られるかぎり」とありますね。私は〈このように判断している〉、という内容と、そのように考えている働き(思惟)とが統一されている時に「心理的なる知的自覚」が見られることになります。しかし認識論の基礎となる「知的自覚」はそのような心理学的な自覚ではない、というのがここでの西田の主張です。ここまでで質問はありますか?

B

「私は私である」が心理学的でない、とはどういうことになるのでしょうか?
佐野
先程も申し上げましたが、一つは「論理的」になければならない、とするものです。次に「リッケルト派の認識論者は先験心理学的反省によって抽象的思惟の主観を許し」ている、とありますね。「先験心理学」とは「超越論的心理学」とも訳されますが、カントが『純粋理性批判』で批判したものです。それは「Ich denke」つまり純粋統覚を、誤謬推理(パラロギスム)によって形而上学的な実体にしてしまうものです。ですからここは西田のリッケルト批判と考えることができます。リッケルトは「Ich denke」を「論理的主観」と言っているが、本当はパラロギスムによって、それを実体化し、それを「抽象的思惟の主観」としているではないか、という批判です。そんなことをしておきながら、「何故に具体的思惟の主観たる自覚的主観」、つまり知的(判断的)自覚も意志的自覚をも含むような「自覚」としての主観を「真の認識主観」として認めないのか、このように批判しているのです。そうして「知識があるということは、知的自覚によって可能になるのである」と述べます。この「知的自覚」は、たんに「論理的」なものでもなく、また形而上学的なものでもない、「真の認識主観」としての「自覚的主観」のことです。つまり「自我」の「知的直観」を根本に据えた「自覚」としての主観です。これが「心理学的」でない「知的自覚」のもう一つの在り方であり、西田はフィヒテと共にこの立場に立とうとします。今日はここまでとしましょう。
(第89回)
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意志の自覚

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落冒頭から第5段落307頁12行目「認識主観を自由にしたいと思うのである」までを読了しました。今回のプロトコルはOさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンス(KS)は二つあって、「理性的KS: 作用の意識としては、意志の意識も知覚の意識と同様に直接である」(305頁9-10行目)と「感情的KS: 意志的体験の内容は論理によって限定せられるものではない、却っていつも之を破るものである」(307頁4-5行目)でした。そうして「考えたことないし問い」は「ある日、あるものが理由もなく以前とちがって見えたとき、それはリッケルトと西田のそれぞれの立場においていかに説明されるか。認識における対象化は、それ自体がとても複雑なことのように思える。意識によってパッケージされた形式と内容はもともと不完全なもので無限にあるものの一部(記憶された体験の平均値あるいは代表値)でしかないとしたら、意志の優位は自ずから説明がつくのではないか。あるいは「あるもの」のカテゴリーが幾つもあって、私(たち)はその都度に異なる対象界を見ているのだろうか」(236字)でした。また「おなじものを知覚しながら知覚していなかった事例として同時期に製作された次の2作品をあげる」として「映画「RUMBLE」(2017年カナダ)と映画「グリーンブック」(2018年アメリカ)が参考として紹介されました。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
議論が深まりやすいように少し整理しましょう。「ある日、あるものが理由もなく以前とちがって見える」ことをどう説明するか、ということですが、「理性的KS」では「意志の意識も知覚の意識と同様に直接である」と言われているけれども、知覚の意識によって認識されたものは、「無限にあるものの一部」でしかない以上、「感情的KS」で「意志的体験の内容は論理によって限定せられるものではない」とあるように、根本に意志的体験があって、それを(知覚として)「見る」時に限定される、だから「以前とちがって見える」ということが起こりうる、というように説明できる。だから「意志の優位」は明らかだ、そのようにおっしゃっていると思われます。この理解で大丈夫でしょうか?

O

はい。
佐野
そうすると、この問題は知情意の問題になりそうです。西田は『善の研究』以来、知情意の同一性と、知に対する情意の優位を同時に説きます。まず何故知より情意を深いと西田が考えたのか、それを問題にしたいと思います。

T

生まれる順番だと思います。先に起こったから深い。生まれた子供に知はありませんが、情意には圧倒されます。これは生きんとする意志だと思います。大人でも朝目覚めたときにまず働くのは情意です。知はそれからです。
佐野
なるほど。目覚めたときに我々はまずここはどこ、私は誰というように状況確認をしますね。ここが教室で受講生だということが分かれば、次に何をすればよいかが分かりますが、これが分からないと何をしてよいか分かりません。これは知を求めているのですが、それはそれより以前に生きんとする意志があるからだと。

W

でも最初の意志も与えられた状況がなければ働かないと思います。生まれてしまった、目覚めてしまった、というのがその与えられた状況に当たると思います。

T

たしかに赤ちゃんにしてもへその緒を切られた瞬間泣き始めますね。息をしようとして。これが生きんとする意志だと思いますが、へその緒を切られるまでにはそれがない。目覚めたときにも同じようなことが言えるかもしれません。それ以前は非意志的です。
佐野
なるほど。ですが、こうした考察をどこで行っているか、を考える必要があると思います。そうするとこれはもう、明らかに知の立場ですね。知より情意の方が先だとか深いとか言うのも知の立場です。だとしたら、知が先です。それにもかかわらず、何故西田は知より情意の方が深いと言うのか、そこを考える必要があると思います。

T

知によって捉えられない、知の限界があって、そこに近づけるのが情意ということではないでしょうか?

O

情意によってよって捉えられるものは、限定できないものだと思います。参考に挙げさせてもらった「グリーンブック」でクラシック音楽のピアニストが「ジャズってズレなんだな」と語るシーンがあります。分からないものが「ズレ」ですが、これを情意と考えてみたいのです。「Rumble」の方は、ブルースは黒人奴隷の歴史から生まれたもの、ロックは白人のもの、という通説がありますが、ネイティブ・アメリカン(黄色人種)の音楽がその底流にあったというドキュメンタリーです。これも通説を破るものとして情意的なものの顕現の体験だと思います。
佐野
西田は情意ということで美術家などの例を出すことが多いですが、たしかに芸術作品は言葉で説明できるものではありませんね。その意味では知は浅い。しかし外から見て、それについて論ずる以上、その浅いところから入るほかはないですね。でも情意というので押し切ると、これもおかしなことになる。村上春樹の小説を読んで、すばらしい、感動的だ、言葉では説明できない、以上、ということでは何も分からない。知に深浅があるのと同様に、情意にも深浅があります(そうした深浅は知においてしか顕わになりませんが)。情意体験の深さは言葉にしないと分からない。他方で、体験が深まらないと言葉も薄っぺらです。西田は知覚(知識表象)と意志(運動表象)とは我々において元来分かれていなかったが、発達の段階で分かれて行ったと『善の研究』で述べています(岩波文庫改版『善の研究』43頁)が、おそらく我々の現今目下の認識や意志の場合でも、その根源は知も意もまったく意識されないところでしょう。それが何かの機縁でそれらが分れてそれぞれに意識され、そのつどそれぞれに言葉が与えられ、見ることも、意志することも可能になるのだと思います。その際そのつどの認識(思惟)や意志の根底に知的直観があり、これがどこまでも深まっていきます。この知的直観が深ければ見る(考える)こと、行うことも深いものとなります。しかしその最後の所に宗教的覚悟という知的直観があって、それが「生命の捕捉」つまり生きること(死ぬこと)をありのままに捉える(生死を明らめる)知、だとされます(『善の研究』第1編第4章「知的直観」)。そこでは最初と同様、知も意も特別に意識されない、平常ということが成立するのでしょう。こういうことが目下の認識や意志の場合でも起こっている、ということでしょう。プロトコルはこれ位にしてテキストに移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(307頁12行目~15行目)
佐野
「共に客観的知識」とありますが、「共に」とは?

A

「自然科学」と「文化科学」です。
佐野
そうですね。たとえば「ここにペンがある」というような「知覚がある」という「知覚的所与」と、「字を書きたい」というような「意志がある」という「意志的所与」が「私は考える」という思惟と結びついて判断(命題)になるわけですが、この両者が「客観的知識」とされています。こうした知識を学問まで高めたものが「自然科学」と「文化科学」だというわけです。もちろんこうした「客観的知識」といえども新しい事実(実験、資料)によって変更されることになりますが、そういうことも踏まえた上で思惟が「内容」と結合していることをもって、西田は「客観的」と呼んだのでしょう。この思惟との結合が「自覚」です。リッケルトの場合は、すべて(知覚的所与、意志的所与)が一律に判断意識の対象です。見た、あるいは意志した、ことについての判断であって、見ている、意志しているという自覚ではありません。「真の認識主観を(リッケルトがそうした如く)単なる判断主観でなく、カント自身の考えた如く形式と内容との統一の主観(構成的主観)とするならば、所与の原理と共に認識主観の意味が変って来なければならぬ」(括弧内引用者)とありますが、「所与の原理」が知覚的所与の場合には、「知的自覚」、意志的所与の場合は、「意志の自覚」ということになります。次をBさん、お願いします。

B

読む(308頁1行目~4行目)
佐野
「知的自覚」によって「自然界」が成立し、「意志的自覚」によって「文化科学」が成立すると書いてありますね。「文化科学の根本概念たる個性の概念」とありますが、人間の意志が問題になる歴史学などが念頭に置かれていると思います。人間の意志を問題にしない限り、歴史学における「個性」を論ずることはできないだろう、というわけです。リッケルトはすべてを判断意識の対象として知的一般的にのみ扱うからです。ついで「意志の自覚は知的自覚と同じく直接である」とありますが、この「直接」はさしあたりの意味でしょう。「ここにペンがある」というのと「字を書きたい」というのと、同じく直接的だ、という程度の意味です。根源にまで遡った議論ではない。ところが西田は「同じく直接である」と言った直後に「否却って一層深い自覚である」と言い直します。そうして「知覚の対象界」より「意志の対象界」は一層深く、我々が自覚を深めることによってそうした対象界を見ることができる、とされます。何故そうなるのか、その理由はまだはっきりしません。次をCさん、お願いします。

C

読む(308頁4行目~10行目)
佐野
「単に判断主観の立場のみに立って」、リッケルトの立場ですね。すべてが対象化されている。「ここにペンがある」、「字を書きたい」というところから一律に出発する。そうなるとそれはどこから来たのか、の問いには外から「与えられたもの」と言うよりほかなく、それ以上にその起源を問うなら「神の所為」とでも言うほかはない。それ以外に知覚的所与の起源としては「物自体」が考えられる。しかし「物自体」が触発して「知覚」が成立する、というのは知覚の原因を経験の外に求める錯誤として論外であるが、この「物自体」を「超越論的対象」として、「知覚の根底」に統制的な理念として用いるのは構わないし、認識構成に必要だ、と言うのでしょうね。しかし「意志の優位」を西田が説くと言っても「情意に基づく信念」、例えば「意志」のようなものを設定して、それを知覚の形而上学的な原因とすることも、あるいはそれを統制的な理念として用いることすら、「一度も考えたことはない」と言っていると思われます。ではどう考えるのか。次をDさん、お願いします。

D

(308頁10行目~309頁2行目)
佐野
まず「意志的体験は知覚のそれの如く直接の所与である、而もそれは知覚より一層具体的なる所与であって、知覚的所与の範疇の内に入って来ない」、と以前と同じ内容が繰り返されます。知覚は意志的体験より抽象的だということになります。その意味で意志的体験は知覚的所与の範疇(分類)の内に入って来ないし、それより根本的で深い、ということになります。何故そう言えるのか。「知覚と意志との意識的構造について詳論する暇はない」と断りつつ、「知覚の内に意志を包むと云い得ないが、意志の内には知覚を包むということができる」とその理由を述べます。これはどういう意味ですか?

D

「字を書きたい」という意志のうちには「これがペンである」という知覚が包まれているということだと思います。
佐野
なるほど、そう考えましたか。とりあえず次を読んで見ましょう。「意志の対象界」を構成する認識主観は「所謂自然界」を構成する認識主観より深い、とありますね。「知覚の自覚」より「意志の自覚」の方が深い、ということです。今日のプロトコルのテーマでしたね。何故深いと言えるのでしょうか。一つには先程あったように、意志の自覚の方が具体的で、知覚の自覚の方がそこから抽象されたものだ、ということがあるでしょう。自覚されたものをさらに外から眺めることによって成立するからだ、と考えることができます。もう少し読んで見ましょう。ここまでで何か分からないところはありますか?

D

大丈夫です。
佐野
まず「無論意志の体験其者を思惟の形式と内容との結合たる認識主観の立場に於て対象化することはできぬ」とあります。意志の体験を対象化してこれを認識(判断)対象としても、それは意志の体験「其者」ではない、ということです。「意志其者を此立場(判断意識の立場)に於て認識するとは云い得ない」(括弧内引用者)とも言われます。意志した(例「水を飲みたいと思った」)ことを認識しても、意志「其者」の認識にはならないということです。「意志の体験」(「意志の自覚」)とは意志しているその刹那に意志していることを自覚することです。その意味では「意志は全然知識を超越すると云うことができ」ます。この場合の「知識」とは判断的・概念的知識のことです。さていよいよ核心に入って来ます。それではEさん、お願いします。

E

読む(309頁2行目~12行目)
佐野
「経験内容」(知覚)と「思惟の形式」(カテゴリー)の統一が「自覚的統一」とか、「自覚の意識」と呼ばれていますね。「ここにペンがある」(知覚)を考えることによって「ここにペンがある」と「私は考える」、となりますが、このことによって知覚とカテゴリーが統一されると同時に、自覚が成り立つことになります。「私は考える」が地となり、「ここにペンがある」が図となります。ここまではどうですか?

E

大丈夫です。
佐野
ところが西田はそれに続けて「かかる自覚的統一の根柢には却って意志の意識がなければならぬ」と言います。「根柢」という言葉が出て来ましたね。何故「より深いのか」の問いに対する正式な答えがこれです。「知的自覚」の「根柢」が「意志の自覚」だからです。しかしそれはどういうことか?「意志の意識なくして知的自覚は成立しない」とも言い換えます。それを考えるヒントが次に示されます。「カントの純粋統覚がフィヒテの事行(タートハンドルング:引用者)に到らねばならなかったのも此故である」がそれです。参考までに西田のフィヒテについての講義を覗いてみましょう。旧西田全集第14巻37頁をごらんください。その7行目から13行目まで、Fさん、お願いします。

F

読む「フィヒテはカントの物自体を除き去り、凡ての実在は「我」の創造的作用によって存立するものと考えた。凡ての知識は自覚によって成立する。自覚は凡ゆる実在の中心となった。自覚というのは我が我を反省することである。我が我を反省するのは我が我に対して働くことである。我が我に働くのは即ち我の存在であると考えられるに至った(我の存在がまずあって、それが働くのではなく、我が働くことによって、つまり自我定立の働きによって、我は存在するということ:引用者)。知るというのは単に知覚することではない、知るというのは働くことである。働くことは同時に存在することである。即ちタートハンドルング(働き即実在)が世界の中心となったのである。フィヒテの我は云うまでもなく単なる個人的自我ではない、超個人的大我である。而してそれは意志である」。
佐野
これを読むと「ここにペンがある」と「私は考える」という「知的自覚」の「根柢」に、「私は考える」を成立せしめている意志があることが分かります。これは例の英国における地図の話です。「ここにペンがある」と「私は考える」ということを地図に描くことで「知的自覚」が成り立つということです。だからカントからフィヒテへの移行は「単にそれが形而上学に堕したとのみ考えることはできない」と言われます。形而上学に堕したとされるのは、自我を客体的に実体化した側面を無視できないと西田が考えるからです。次にまた重要なことが書かれてありますね。

F

「知的自覚は意志的自覚に於てあるが故に、意志的所与が知覚的所与より深きものと考えられる」とあります。
佐野
一応の結論ですね。「於てある」という言葉が用いられていますが、次元の違いがあるようです。ですから「より深きもの」と言われます。そうして「我々の自覚的立場を深めて行くことに従って、所謂自然界以上の対象界を見ることができる」と言われます。

F

「自然界以上の対象界」とは何ですか?
佐野
次に「自覚の意識の存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し、何等かの意味に於て対象界が見られる」とありますね。「所謂自然界」というのは知的・判断的対象で、外から眺めることによって成立ものです。そこに「私」自身は生きていません。これに対し「意志の対象界」においては、目の前のコップはただちに自分ののどの渇きをいやすための対象となるものです。この対象界はそこにおいて私が生き、死んでいくところの世界です。

F

しかしそうした対象界を「越える」とありますね。
佐野
ええ。「自覚の意識が存立せられるかぎり、尚認識主観の意義を有し」とありますね。「何かをしたい」という意志を自覚(意識)することは、意志の対象を客体として立てることになります。そこに認識主観が成立し、対象も認識対象となる、ということでしょう。意志が自覚されると共に、意志と認識が分かれるということです。こうした在り方を我々は脱することはできませんが、意志的自覚はどこまでも深まっていきます。それにつれて知的自覚も深まることになります。この深まりは無限ですので、西田は一方で「我々の自覚は無限の深底」であると言います。しかし他方で「自覚の意識其者をも失う所」を認め、それを「真の自覚」と呼びます。「真の自覚があるのである」。確信に満ちた強い言葉ですね。それは「全然知識の領域を脱して」とありますが、それは「意志」の「対象」も意識されないということです。これは以前出てきた「作用としての意志」と「状態としての意志」の区別にも関わりますね。なるがままに行う、といったイメージです。『善の研究』では雪舟の筆などの例が挙がっていましたね。そうして「直観の世界に入る」とされます。「而してそこに真の自覚が現れるのである」とありますが、ここは『善の研究』で、思惟(知識)と意志の根柢の「知的直観」、つまり「宗教的直覚」と呼ばれたものです。

F

悟り、のようなものでしょうか?
佐野
そうですね。しかしそれが同時に我々の日常のありのままの姿だ、ということでもあると思います。そうして「此の如き意味の直観を知識の極限として、概念的知識ではないが、真の知識と考えると共に、知識成立の根本条件とも考えるのである」と締めくくります。我々の日常の知識や意志的経験がこうした直覚によって実は成り立っている、ということです。今日はここまでとしましょう。
(第88回)
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知覚と意志

前回は、岩波書店「西田幾多郎全集」旧全集の第四巻『働くものから見るものへ』「左右田博士に答う」より「五」の第4段落302頁5行目「厳密に対象自体という如きものから出立すれば」から304頁の11行目「die blosse dogmatische Beschränkung der Erkenntnistheorieではないか」までを読了しました。今回のプロトコルはWさんのご担当です。キーワードないしキーセンテンスは「理論理性の自省である認識論は単に判断意識の自省ではなく、知識自身の自省でなければならない、之を単に形式的なる判断意識に限ろうとするのはdie blosse dogmatische Beschränkung der Erkenntnistheorieではないか。」(304, 8-11)でした。そうして「考えたことないし問い」は「西田は、リッケルトに対して、「リッケルトの認識論は唯、知識の構成原理としての判断意識を明にするに止まる」と批判する。しかし、西田によれば、認識論は「知識自身の自省」(知ることを知る)でなければならない。ここでいわれる「知ることを知る」の「知る」は、「単に形式的なる判断意識」とどのように異なるのか。また、「知識自身の自省」と言うときには、「知識自身の自省」を知る立場に身をおいているように思われるが、いかにしてこの立場は成立するのか。」(217字)でした。例によって記憶の断片から「構成」してあります。
佐野
二つ問いがありますね。最初の問いはリッケルトの考える「知る」と、西田の考える「知る」の違いに関する問いですね。大雑把に言えば、リッケルトは対象化されたものしか知り得ない、たとえ「分からないもの」という仕方でもすでに言葉になったものについてしか分かり得ないとする立場だと思います。その意味では何らかの仕方ですでに「知られたもの」しか知り得ない、と言えると思います。最初に「知られたもの」については「与えられた」としか言いようがない。言葉になったところからしか出発のしようがない、というように言えると思います。以上はリッケルトですが、コーエンは「与えられる」ことができるのは、すでにこちらからの思惟の要求があるからだとし、「与えられた」ものは解決すべく「課せられたもの」だとします。これに対し西田は判断や意志も含めて、現在遂行中の「知る」ということを「知る」ことができる、と考えます。後の方の「知る」は「自覚」です。図と地で言えば、リッケルトは図しか知り得ないとするのに対し、西田は地も知りうるとします。どちらも問題を抱えているような気がしますが、それは後で皆さんと一緒に考えましょう。ところでWさん。二番目の問いはどういうことですか?

W

「知識自身の自省」(知ることを知る)と「言う」(知る)のは判断意識、つまりリッケルトの言う「知る」になっていると思うのです。
佐野
なるほど。「言う」が漢字になっているところが重要ですね。これは西田の「知る」(自覚)が抱える問題点ですね。自覚は自覚している、と「言う」ことによって初めて自覚される。しかしその時すでに対象化されてしまっている、対象化されなければ自覚も自覚されない、ということですね。

R

私たちは、対象化していることすらも意識しない仕方で日常を過ごしています。そういう対象化しているという在り方が照らされて、転換が起り、本当の日常に帰る、ということがあると思います。

W

そのように「照らされている」と「言う」時に、すでに対象化が起っているのでは?

R

そのように対象化することも含めて日常へ帰る、ということだと思います。
佐野
反省も程度の差ということで、すべてが「純粋経験」となる、「純粋経験」の外に出ることはできない、というような感じですね。「平常心」といいますが、そのように言ったり、意識したりしたらもはや「平常」ではありませんね。しかしそれも含めて「平常」だと。ですがここにも転換はありますね。修行される方の中では絶えずこうしたことが行われていると思いますが。

W

でも「知る」ということをそのように捉えると、それが前提、底となってしまって、それ以上何も見えなくなってしまうと思います。私としては、「自省」と「言った」瞬間に、もう対象化が起っていて、そこにズレが生じているということの方に興味を感じます。

K

西田のリッケルト批判が、認識論の独断的な制限ということで、今日の説明では、リッケルトは「知」を対象化されたものの知に制限したということでしたが、そうなると西田は対象化されない知というものもある、ということを主張したことになります。Wさんの問いは、そうした西田の主張する「知」は現実的にあるのか、という問いと同じことでしょうか?

W

ええ。そうした「知」はあるような気がしますが、それを言葉にしてしまうと、そこにズレが生じてくると思います。

R

真の平常の立場は、そのズレをも同時に見る、ということだと思います。

W

そんな立場があるんでしょうか?

R

対象化している立場からは見えないと思います。
佐野
「対象化している立場からは見えない」ということをどこで言っているか、ということをWさんは言おうとしている。しかしそうした立場をも含んで平常というものが成立している、とRさんはおっしゃる。これはきりがなさそうですね。(「そうした立場をも含んで平常というものが成立している」ということが開ける時、平常に帰るわけですが、それを「平常」と名付ける以前に、そうした瞬間にどこまでも分からないものが立ち現れている、と考えてはどうか、とあとで感じました。そうだとしても、この「自省」の立場はそれだけで自立しているような立場ではなく、つねにそれを「語る(言う)」ということとの関係の中でしか成立しない、ということは言えそうです。直接に立とうと思って立てる立場ではない。)これまでは西田の「知る」について、その問題点を議論しましたが、Wさん、リッケルトのような「知」の見方には問題点を感じませんか?

W

感じます。所与、あるいは触発されたというところから出発し、そこに判断だけ取り出すのはきわめて歪(いびつ)だと思います。対象化ということは人間に免れないことだと思いますが、対象化がどこから起っているのかが問えない。「分からない」という仕方で対象が与えられたとしても、どうして「分からない」として与えられたかが「分からない」。
佐野
そこはもう「問わない」というのがリッケルトの立場だと思いますが、Jさんはリッケルトの立場に賛成ということでしたが、いかがですか?

J

浮かび上がる前は対象化されない、浮かび上がったら対象化されている、ということでまずはいいと思います。〈想像もできない恐ろしさ〉ということも、「それ」を考えたら「それ」でなくなってしまう。その時に「それ」は対象化されています。でも対象化されないものがどこかにある、と考えるともう対象化されいてる、人間は対象化されたところからしか始められないのではないでしょうか。

W

意識の次元で考えると、Jさんに納得してしまいますが、「分からない」というように何故対象化されたか、それが「分からない」。「対象化」ということですべてを閉ざしてしまう。「分からない」を成立させるメカニズムに到達しない。「対象化」してしまうことを説明することもできない。

J

それは問えません。「分からない」は与えられた言葉です。

O

西田の言う「知る」。そこにすべてがあり、それを言葉にすることで、ズレが生じる、というのは面白いと思います。このズレがあるから「同じものが違って見える」ということも成り立つと思います。知識構成が変わっているんですね。

K

同じものを見ても見た人にとって見え方は異なる。その人にとっては同じもののその人にとっての「表」しか見えないんですね。「裏」があることは分かるんですが、何かは分からない。対象化できる部分とできない部分がある、ということです。
佐野
でも「裏」とか「対象化できない部分がある」と言ったら、それも対象化だ、と言われそうですが。

K

そういうことになると思ますが、西田の「知る」には動きが認められているのに対して、リッケルトの「知る」はこれを認めていないような気がします。
佐野
対象化されたもの、与えられたものから出発することへの疑問ですね。例えば「分からない」という言葉が立ち上がるにしても、それはこちら側から勝手に名付けたものではないと思います。言ってみればあちら側から促されて、あるいは呼び掛けられて、それに応答・呼応する形でぴったりとした言葉を与えようとしつつ、同時にそこにズレが常に意識されている。こうした体験を例えば「分からない」という言葉は含意しています。「分からない」という言葉から出発する、ということは「分からない」という言葉自体を「分かりきったもの」として出発することになりそうです。プロトコルはこの位にして、本日の講読箇所に移りましょう。Aさん、お願いします。

A

読む(304頁12行目~305頁8行目)
佐野
「カントは所与の原理として唯知覚作用というものを考えた、所謂自然界の知識構成としてはそれでよいのである」とありますね。「唯」とか「それでよいのである」というところ、なんか物足りなさそうですね。西田は知覚作用のみならず、意志作用も考えるべきだと言おうとしているのです。そうすると、「自然界」のみならず「文化の世界」の知識構成も論じられる、というわけです。次の「思惟の範疇」というのは「カテゴリー」のことです。「直観の形式」は「空間・時間」。それらの結合によってできる「経験界構成の先験的原理」ですが、まず「経験界」は「自然界」と同じ意味です。そして「先験的原理」というのは「超越論的(先験的)原則」のことです。そうして「経験の所与」つまり「知覚」に与えられたものなしに、魂や世界、神といったものに「徒に推理を進め」ても、「誤謬推理」になるか「アンチノミー」に陥ってしまう、というわけです。「併し此場合」と来て、「形式と内容」つまり「原則」と「経験の所与」とを統一して「知識の客観性を樹立する認識主観は何であったか」、そのように西田は問いを立てます。「客観性」というのを西田は「内容と形式の統一」のうちに求めますが、これは独特なカント解釈だということは頭に置いておきましょう。ここまでいかがですか?

A

大丈夫です。
佐野
先の問いに対して、西田は、それは「意識一般」であるが、それはリッケルトの言うような「単なる判断主観」ではない、そのように言います。「内容と形式」を統一するものは「構成的主観」でなければならないと考えるからです。そうして西田はそうした主観を、カントは「知的自覚」に求めた、そのように言います。「カント哲学の真髄は此にあると思う」とまで言います。そうして「我々の自覚というのは作用と作用との直接結合の意識である」と言います。「知る(知覚)ことを知る(判断)」ということです。これによって「判断と知覚」が「私は考える」という自覚によって直接に結合している、このように考えます。それでは次をBさん、お願いします。

B

読む(305頁8行目~306頁7行目)
佐野
ここで「所与の原理」として、「知覚作用」のほかに「意志作用」が加わってきます。そうして意志が知覚とは異なる「直接の意識内容」を持っていることが強調されます。後で出て来ますが、「知覚」の場合、対象は「前から与えられ」、「意志」の場合、対象は「背後から与えられ」ます。「見る」と「する」の違い、「ある」と「あるべし」の違いと言ってもいいかと思います。

B

意志も知覚されませんか?
佐野
内的感覚として知覚される、と言ってもいいと思いますが、与えられ方が違うと思います。西田は意志の例として、その初期の形態である「衝動」について述べていますね。例えば「水が飲みたい」という言葉が出てくるもととなる感覚です。これについて西田は「衝動という如きものであっても既に知覚ではない」と述べています。

B

衝動のような原始的なものは知覚と区別できないように思います。お金が欲しい、というような欲求は明らかに区別できますけれど。
佐野
そうですね。(西田が『善の研究』でそれについて述べている箇所がありますので、岩波文庫改版136頁11行目から137頁10行目をご参照ください。)次いで「リップスの所謂感情移入の対象界」というのが出て来ます。これについては298頁13行目に「人と人とが互いに直感する感情移入の如き直接所与」という形で出ていましたね。その際にまず自我があってその感情を他我に移入するのではないことが注意されました。ここまでいかがですか。

B

とりあえず理解できました。
佐野
次いで「知覚」や「意志」がそのまま「概念的知識」になるのではなく、そうした「所与の内容」と「判断形式」(カテゴリー)との結合によって「知識の客観性」が成立する、ということであれば、「知覚的所与」との結合によって「自然界」が構成されるだけでなく、「意志的所与」との結合によって「文化の世界」が構成される、したがって「自然科学」に対立する「文化科学」が成立する、そのように西田は述べます。次の文章が少し難しいかもしれません。「カントの意識一般は思惟と知覚との結合であった」。これによって成立するのは「自然界」だけです。「之を知覚の結合から自由にするのは、私の同意する所である」とありますが、「之」とは何を指しますか?

B

カントの意識一般ではないでしょうか。
佐野
そうですね。それではカントの意識一般を知覚の結合から自由にしたのは、誰ですか?西田はこれに同意すると言っていますけれど。

B

新カント学派、ですか?
佐野
だと思います。ここでとくに念頭に置いているのはリッケルトでしょう。

B

自由にするとありますが、意識一般が所与の内容から解放される、ということですか?
佐野
そうではなくて、知覚という所与だけに縛られずに、意志的所与とも結合できる、選択肢が増えるということでしょう。しかしリッケルトに対する同意はそこまでで、「併し之を」とありますが、「之」とは?

B

これも「意識一般」だとおもいます。
佐野
そうですね。意識一般を「単なる判断主観とするならば」、とありますが、そのようにしたのは?

B

リッケルトです。
佐野
そうでしょうね。そうなると意識一般が持つ「客観的知識の主観たる意味」が失われてしまう、とあります。西田によれば、カントの「客観的」とは内容と形式の統一によるものです。内容を構成しない、単に主観的な判断に留まる「判断主観」は意識一般たりえない、そう言いたいのです。それでは次をCさん、お願いします。

C

読む(306頁8行目~307頁12行目)
佐野
「右の如く意志的体験も知覚と同列的に所与の意識として、判断主観に対して質料を与えると云うのみならば」とありますが、そのように「云う」のは誰ですか?

C

リッケルトではないでしょうか?
佐野
そうだと思います。カントは第一批判で「真」、第二批判で「善」、第三批判で「美」を扱いましたが、そのうち第二批判の実践理性に優位を認めていました(「意志の優位」)。しかしリッケルトは真善美を価値、当為とし、これを一列に判断意識の対象として扱っていますから、その点を西田は批判しているのです。これに対して西田の「真の認識主観の立場」、つまり「私の所謂自覚的立場」ではどうなるか、それをこれから考える、というのです。ここまでで何か分からないところはありますか?

C

大丈夫です。
佐野
まずリッケルトは判断主観が知覚に結合する場合と、意志に結合する場合を同列に扱っている点を、リッケルト自身の立場(「判断主観其者の立場」)に即しながら批判します。カントは「限定的判断作用」と「反省的判断作用」を区別しましたが、これはどうなっているんだ、というわけです。「限定(規定)的判断」とは、「普遍(一般)」が与えられていて、そこから「特殊」を規定する判断の在り方です。カントの場合自然界において、「原則」がこの「普遍」にあたります。これによって知覚内容が構成されます。「原則」は内容の「構成原理」となります。それに対し、「反省的判断」とは逆に特殊から普遍(一般)を求める判断の在り方です。この場合、普遍は与えられていませんから、それによって知覚内容は構成されずに、あたかも何々であるかのように、という仕方で普遍は統制的に用いられることになります。つまり「普遍」は「構成原理」ではなく、「統制原理」ということになります。例えば「有機体(生物)」の概念はこうした「統制原理」になります。その場合生命現象について語る場合には、あたかも生命があるかのように語ることになり、そうした語りは厳密な「知識」にはなりません。西田は「意志的体験の内容」も同様に厳密な厳密な「知識」にはならない、と考えます(「論理によって限定せられるものではない」=「一般概念的に限定」されない=知識でない)。こうしたカントの「限定的判断」と「反省的判断」の区別によるならば、「自然科学」は知識だけれども、「文化科学」は知識でない、ということになり、「自然科学」と「文化科学」を同列に扱うのはおかしい、ということになります。ただしリッケルトは意識一般を構成主観とせずに、「判断主観」に限定し、それが「真善美」といった価値・当為を求めるという立場に立ちますから、両科学は同列だということになります(「単に判断意識の内に閉じ籠って内容との関係を顧慮せなければ、二種の科学が同様に見られるかも知らぬ」)。ここまで、少し難しいですが、大筋はいかがでしょうか?

C

多分、何とかついて行けたと思います。
佐野
そうして今度は西田自身の立場が表明されます。「私はカントの認識主観の意義を判断主観に狭めることによって、知覚との結合から自由にする」、これをやったのがリッケルトですね、そういう仕方で「自由にするのではなく、寧ろ之を広めることによって文化科学を客観的知識と考えたいのである」。「之を広める」の「之」は?

C

カントの認識主観の意義、だと思います。
佐野
そうですね。リッケルトはカントの認識主観(意識一般)を「判断主観」に狭めることで、カントにおける知覚との結合から自由になり、自然科学と文化科学を同列に扱い得た。これに対し、西田はカントの認識主観の意義を「自覚」にまで広め、自然科学のみならず、「文化科学をも客観的知識と考えたい」と述べます。どうして客観的と言えるのか、気になりますが、今日はここまでとしましょう。
(第87回)
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著者

  • 佐野之人 さの ゆきひと
  • 現在、山口大学教育学部で哲学、倫理学を担当しています。1956(昭和31)年に静岡県富士宮市で生まれ、富士山を見ながら高校まで過ごしました。
    京都大学文学部を卒業して文学研究科に進み、故辻村公一名誉教授のもとでヘーゲル、ハイデッガー、西田哲学などを学びました。東亜大学に2009(平成21)年3月まで勤務し、同年4月より現職です。

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